400年に一度のチャンス -24

***24.パラダイムの転換と新しい経済学の樹立①

 これまで4回にわたって(「400年に一度のチャンス -20」「400年に一度のチャンス -21」「400年に一度のチャンス -22」「400年に一度のチャンス -23」)、時代の流れが大きく転換しようとしていることを述べた。パラダイム・シフト(転換)である。延々と踏襲されてきた社会の仕組みとそれを支えてきた人々の考え方そのものが、現実の社会の歪みを惹起し、その歪みが極限にまで達して社会自体を崩壊させようとしていることだ。



 私は、社会の歪みを端的に表している現象は貧困であると考えた。

 世界では、10億人もの難民が存在する。慢性的な飢餓にあえいでいる人々が、実に6人に1人の割合で存在するという現実は、容易ならざることだ。富める人々が援助の手を差しのべる限界をはるかに越えているのである。

 この他に、経済的には豊かな国であるとされている日本でもアメリカでも、ワーキング・プア(貧民)層(「400年に一度のチャンス -17」参照)が増大の一途を辿っている現実がある。日本では、労働人口6,700万人のうち1,700万人もの貧民がいる。4人に1人の割合だ。働く能力も意欲もありながら職を得ることができない人々(失業者300万人)に加えて、職を得てはいるもののまともな生活ができない人々(ワーキング・プア。1,400万人)がいるのである(「400年に一度のチャンス -13」参照)。

 私は、日本におけるワーキング・プア層を解消する方策として、1,000万人のパブリック・セクターの人々に過大かつ不当に配分されている国富を大幅に削って、ワーキング・プア層に再配分することを提案した(「400年に一度のチャンス -17」参照)。ただ、この方策は、一時的な、いわば対症療法にしかすぎない。貧民層を解消するための根本的な方策ではない。収奪経済が続く限り、仮に一時的に貧民層が消滅したとしても、時間が経つにつれていずれ新たなワーキング・プア層が生まれてくるであろう。

 従って、対症療法を断行した後に、貧困を生み出す元凶である収奪経済そのものを見直されなければならない。そのためには、経済活動において当然のような前提となっている「市場原理主義」に冷徹なメスを入れて、その実態を明らかにした上で、思い切って訣別する必要がある(「400年に一度のチャンス -23」参照)。

 これまでの経済学は、物理学と同様の科学(サイエンス)であろうとすることに拘(こだわ)る余り、経済事象を抽象化することに明けくれていた。
 生産の理論は、経済を組成する生産要素としての、資本、労働力、生産手段をもとに組み立てられていたし、所得の理論は、投資と消費によって、支出の理論は、消費と貯蓄によって組み立てられていた。マクロ経済学は、これらに利子率をはじめとする金融的側面を加味して組み立てられているものだ。
 ミクロ経済学に関していえば、抽象的な経済人(ホモ・エコノミクス)を想定して、経済合理性のある行動をとることが前提条件とされている。
 モノを作る側(供給)は、作ったモノをできるだけ高く売ろうとし、モノを買う側(需要)は、同等のものであるならばできるだけ安く買おうとする、これがホモ・エコノミクスの基本行動であるとされ、価格決定理論の出発点をなしている。自由な競争が行われている市場においては、供給側と需要側とが競り合いを行って、双方が納得した水準でモノの価格が決まる、これが価格決定理論の中核だ。

 マクロ経済学といい、ミクロ経済学といい、西欧的な合理主義のモノサシで組み立てられているもので、科学的とは言いながら多分に思弁的なものである。
 マルクス経済学は、以上とは趣きが異っているが、資本の形成過程の論証に、ヘーゲルの弁証法が組み込まれている分、更に思弁的だ。
 これらの経済学に共通しているのは、思弁的に構築された理論に、現実の経済事象を無理にあてはめようとすることである。多彩な局面を持っている経済事象の中には当然のことながら理論に合致しないものが出てくるのであるが、それらは例外的なものとして捨象されたり、あるいは理論に合致しない経済事象は誤っているとして切り捨てられたりする。
 理論とはいいながら、物理学のように実験によって検証ができない以上、単なる仮説の域を出るものではない。ケインズ経済学、マルクス経済学、あるいは新古典派経済学等全て、仮説の寄せ集めである。仮説にすぎないものを伝家の宝刀のごとく振り回して、経済を分析し、経済の実態を解明しようとしたり、あるいは一国の経済政策の指針にしているのである。

 日本の場合、経済学に関していえば全て西欧の借りモノである。たかだか、この100年余の間のものであり、手っ取り早く出来合いの理屈を借りているだけのものだ。
 日本には古くから、思弁的な捉え方を排し、一つ一つの事象を具体的に確かめながら組み上げていく伝統がある。職人的手法といえるものだ。学問における職人技(わざ)である。
 今求められている経済学は、思弁的な一人よがりの児戯に等しいシロモノではない。多彩な側面をもつ、現実の経済事象が、ありのままの形でズバリ投影されるようなシステム、現実そのものを反映して思弁的に流れることのない経済学、考えてみればごく当り前のものが、これまで世界のどこにも存在しなかったのが不思議なくらいだ。
 400年に一度というべきパラダイムの転換にあって、借りモノでない全く新しい経済学が求められている。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“大相撲 芝居と思や 腹立たず” -佐世保、枯れすすき

(毎日新聞、平成23年6月10日付、仲畑流万能川柳より)

(私の敬愛する安部譲二さんは、相撲取りは、政治家、歌舞伎役者などの芸人と並んでカタギではないと喝破(「あんぽんたんな日々:第25回 『橋本龍太郎の孤独』」参照))

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