400年に一度のチャンス -25

***25.パラダイムの転換と新しい経済学の樹立②

 新しい経済学。一国であれ、全世界であれ、経済という側面から見ると必ず付きまとっているものがある。お金である。

 実はこのお金なるもの、誰にも極めて身近にあるものではあるが、一体何だろうかと考え出すと何だか分らなくなってくる厄介なシロモノだ。

 古今東西を問わず、昔から哲学者をはじめとした多くの人がお金について考察をしてきたが、正体を掴むことができずに途中で投げ出している。

 ギリシャの哲学者アリストテレスを嚆矢として、近代経済学の祖とされるアダム・スミス、産業革命期のイギリスの経済に鋭いメスを入れたカール・マルクス、不況脱却の処方箋を書いたジョン・メイナード・ケインズ等、名だたる学者がお金(money, Geld)に対して真正面から取り組んでいる。

 その後も、お金についての論文はおびただしい数にのぼる。

 しかし、これまで誰一人としてお金を解明し、論じ尽くした人はいなかった。誰もお金の正体を掴むことができなかったのである。

 もちろん、アリストテレス、スミス、マルクス、ケインズは人類が誇る偉大な先達である。無能である訳がない。そのような人達が全力を傾けて解明しようとしたのに、何故お金の正体を掴むことができなかったのか。

 答えは簡単だ。もともとお金の正体なるものが存在しなかったのである。

 お金と似て非なるものに、通貨、あるいは貨幣がある。日本の一万円札、5千円札、500円硬貨、100円硬貨などである。これらは具体的に目に見えるモノであり、触ることもできるものだ。私達はこれを通常、お金と言い慣わしている。
 ところが、経済事象に必ず付随するお金というものを考え出すと、次第に分らなくなる。迷路にはまり込んで身動きができなくなるのである。
 何故か。ひとたび貨幣が社会事象に付随すると、具体的な貨幣の特性が消失し、お金一般に変容するからだ。
 例えば、10万円の品物を考えてみよう。この品物が市場経済に投入され、10万円の貨幣と等価になったものとする。これを手に入れようとすれば、10万円の貨幣を用意すればよい。
 10万円の貨幣といえば、1万円札であれば10枚、5千円札であれば20枚、100円硬貨であれば1万個、あるいは、それぞれの貨幣を組み合わせれば、おびただしい数の組合せが可能となる。銀行振込みをすれば、10万円一発でOKだ。
 この現象は、モノが貨幣で評価され、経済社会に投入されると同時に、個々の貨幣が消え去り、10万円というお金だけが残るということを意味する。つまり、個別の貨幣の特性が消え去り、10万円という「お金そのもの」が残るということだ。
 では「お金そのもの」とは何か。プラトンの所謂イデアであり、ドイツ観念論の「物自体」(Ding – an sich)だ。それぞれの通貨の奥に潜んでいる共通の存在である。

 例えば、本である。私のまわりには雑多な種類の本が雑然と積まれている。文学全集もあれば、文庫本もある。辞書だって本である。これらのものを一括りにして本と言っている。
 ところが、いざ「本とは何か」という問いが発せられたとき、ハタと困ってしまう。
 そこで辞典を引いてみる。本とは、

(1)人に読んでもらいたいことを書い(印刷し)てまとめた物。書物。(広義では、雑誌やパンフレットおよび一枚刷りの絵・図をも含む)
(2)書籍・図書の汎(はん)称。 (三省堂、新明解国語辞典第四版)

とある。
 要するに、本とは、何らかの情報を書き記した書籍とか図書の汎称のことだ。個別の書籍は目で見ることもできれば持ち歩くこともできる。
 しかし、汎称としての本となると目で見ることも、触ることもできない。個別の本の奥にある共通するもの、つまり「本そのもの」、「物自体」であるからだ。
 このことは、机でも椅子でも同じことである。「机そのもの」、「椅子そのもの」は具体的に把握することは不可能だ。

 お金についても同じことが言える。円、ドル、ポンド、それぞれの通貨は個別具体的なものであるから、リアルに認識できる。
 しかし、それらの通貨の背後にある「お金自体」(Geld – an sich)はリアルに認識しようと思っても不可能である。イデアであり、「物自体」であるからだ。
 ところが、お金に関しては、その他の「物自体」とは異なる大きな特性がある。お金は経済社会を動き回るのであるが、姿・形こそ見えないものの、必ず足跡を残すということだ。
 日本ではお金のことを「お足」と言い慣わしている。辞書には次のような説明が付されている。

「おあし(御足)。(女房詞)銅銭。銭(ぜに)。おかね。貞丈雑記15「銭を料足とも要脚とも云、女の詞に御足と云事。…銭の世上をめぐりありく事足あるがごとし」(岩波、広辞苑)

 お金が歩きまわる足跡。全ての経済事象には必ずお金が関与し、必ず何らかの足跡を残す。イデアであるお金の足跡を辿って体系化したのが会計だ。この会計、単に会社とか個人(ミクロ)だけのものではない。国家経済(マクロ)においても同様だ。
 私が提唱するのは、すべての資金(お金)の流れを体系的に捉えた経済学である。会計をベースにして経済学を組み立てるとすれば、従来の経済学のように、思弁的観念的なものにはなりようがないからだ。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“「オーイお茶」「入ったのね」と妻の声” -川西、瀬戸ジヤン

(毎日新聞、平成23年6月12日付、仲畑流万能川柳より)
“ゴミ袋破れ遅刻という課長” -大分、春の小川

(毎日新聞、平成23年6月11日付、仲畑流万能川柳より)

(ご同輩。Frailty, thy name is womanは今いずこ。)

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