職人としての会計士-2

 次の会計士2次試験まで10ヶ月。早速、東京の神田まで足を運び、受験に必要な参考書を50冊余り買い込んだ。

 過去の試験問題を検討したところ、受験科目7科目中、簿記と経済学はほとんど勉強する必要がないことが分った。簿記は松江商業で習んだことに毛が生えた程度のものであるし、経済学にいたっては、ミクロとマクロのごく初歩的な知識があればよかったからだ。財務諸表論、監査論、経営学についても、大学で履修していなかったが、試験問題としてはさほど難しいものではなかった。

 私にとって問題なのは原価計算と商法(現在の会社法)であった。事実、10ヶ月の受験勉強の間、最も多くの時間を割いたのがこの2つの科目である。



 一日平均5時間、アルバイトで生活費を稼ぎながらの受験勉強であった。

 私の高校は商業高校であり、大学受験では大変な思いをしている。松江商業2年の秋に、どうしても大学に、しかも一橋大学に行きたくなり、孤独な受験勉強が始まった。現役では無念の涙をのみ、一年間の松江での浪人生活を余儀なくされた。

 その時の労力を考えると、会計士試験は私の感覚として10分の1以下のものにすぎなかった。従って10ヶ月の準備期間で十分だったのである。岸澤君は私よりも能力的に秀れていたので、ほんの仕事の片手間で勉強し合格したに違いない。

 試験に合格しても直ちに就職することはできなかった。翻訳の下請けの仕事が未完成であったからだ。
 この翻訳の仕事は、当時下館にいて、時折「音楽の友」などの雑誌に音楽評論を寄稿していたA氏からの依頼によるものであった。「ベートーヴェンの伝記」ということで気軽に引き受けたのであったが、読み進むに及んで、単なる伝記ではなく、詳細な音楽的注釈が付された専門的なものであることが判明。音楽についてはほとんど知識がなかったので、注釈部分の意味が把握できないところが出てくるたびに、A氏に相談したり、A氏と共にベートーヴェンの作品を聴いたりして補った。
 口述翻訳という形式をとり、私が翻訳文をテープに吹き込み、A氏が筆録することで進めていった。この仕事は、会計士試験勉強中を含めて、2年ほどかけている。報酬は20万円。今にして思えば、食べていくためのアルバイトとはいえ、盲、蛇におじず、無謀なことをしたものである。500ページ余りの原書は、私の書棚の片スミに、一つの記念碑のように残されている。

 半年ほどかけて翻訳を完成させた私は、名古屋の監査法人に職を得て、職業会計人のスタートを切った。
 あれから40年余り、紆余曲折があったものの、なんとか職業会計人として生きてきた。
 職業会計人としての私は、文字通りの職人である。私の父の職業であった大工と同じ職人、クラフト・マンだ(「冤罪を創る人々 071 基本構図の崩壊 ― 自滅」参照)。ちなみに医師、弁護士、建築士も、会計士同様職人であり、それ以上のものではない。

 私が職人としての自覚を明確に意識するようになったのはごく最近のことだ。7年前、会計士の登録を抹消されたことに端を発して「認知会計」を思いつき、その後いくつかの事例にあたりながら、私は「認知会計」の有効性を検証してきた。「西武鉄道」、「ハニックス工業」、「ホリエモンの錬金術」、「2兆円の粉飾」等全て、認知会計の有効性を検証するための実証分析であった。このような実証分析を重ねるに従って、職人としての自覚が次第に高まってきたようである。
 その結果判明したことは、金銭的なことだけでなく、およそ数字がからむことについて、認知会計は極めて有効なものであることであった。認知会計にもとづく分析のプロセスを私は、会計工学と名付けた。

 幅広い会計士の分野の中で、私が得意としているのは、2つだけ。一つは数字による企業分析であり、いま一つは税務調査の立会いである。共に、認知会計、即ち会計工学に立脚したものであり、職人として他に誇ることができるものであるとひそかに自負している。

(この項おわり)

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 ここで一句。

“俺も子も飼育されてる「あんたたち」” -川崎、さくら

 

(毎日新聞、平成22年10月7日付、仲畑流万能川柳より)

(女がエライのは今にはじまったことではない。古代から、男は女の手の平で踊らされてきたようだ。お釈迦様の手の平から脱することができなかった孫悟空の如し。)

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