100年に1度のチャンス -4

 これまでの話をまとめてみますと、-

+アメリカが中心となって引き起こした、2つのトラブル、イラク戦争と金融危機をお金の側面から見た場合、それぞれが500兆円、合わせて1,000兆円の損害を全世界に与えた、

+この1,000兆円の損害の内訳を見てみますと、イラク戦争によって、破壊するためだけに費消された「モノ」を300兆円とすれば残りの200兆円は、誰かが不当な利益として既にフトコロに入れた勘定になり、金融危機については、損害額500兆円の全てが誰かのフトコロに不当な利益として入っている、

このように、集約することができます。

 つまり、

イラク戦争の費用500兆円のうちの200兆円と、金融危機の損害500兆円とを合わせた700兆円は、その大半をアメリカをはじめとするアングロサクソンの人達がフトコロにし、それだけ不当な利益を享受した

ということです。

 このたびの、リーマン・ブラザーズの経営破綻を引き金にして顕在化した、世界的な経済危機は、イラク戦争で濫費された300兆円の「モノ」と、2つのトラブルのドサクサに紛れて不当に他人の富を奪いとった700兆円の「カネ」の跡始末をめぐるもので、モノとカネ、合わせて1,000兆円のいわば反作用とでも言えるでしょう。なかでも、不当な富の移転である700兆円については、正当な富の所有者に向けて再移転される動きがこれから活発になることでしょうし、このたびの金融危機といわれるものの正体は、まさにこの不当な富である700兆円の再移転のプロセスであると見てもいいでしょう。所詮、経済合理性に反する偽りの行為とその結果は、いつの日か必ず是正される宿命を持っているようです。
 三年余り前に私が、「ホリエモンの錬金術」を書いて明らかにしたかったのは、まさに経済合理性に明らかに反する偽りの行為が白昼堂々となされ、目に余る結果が生じている事実でした。ライブドアが粉飾決算を繰り返していたことは、枝葉の派生的な現象にすぎないもので、粉飾決算自体は決してライブドア事件の本質的なものではありませんでした。

 思えば三年前、自民党の小泉純一郎氏と武部勤氏は、ノーテンキにも、堀江貴文という怪しげな人物を若者のヒーローとして絶賛し、総選挙のシンボルのようにかつぎ上げて国民の目を欺(あざむ)き、その結果、小泉チルドレンと称する多くの怪しげな人達を国会議員にしてしまいました(「ホリエモンと小泉純一郎 -1」「ホリエモンと小泉純一郎 -2」「ホリエモンと小泉純一郎 -3」)。一年以内には必ず行なわれる総選挙については、それがいつ行なわれるのかには関係なく、必ずや、三年前のインチキが是正される結果になるでしょう。政治においては、経済合理性にかわって国民の良識が冷徹な判断を下し、健全な調整をするはずです。

 見えざる手という言葉があります。近代経済学の父と言われている、アダム・スミスの言葉です。

国民の一人一人は、自分の仕事をただひたすら自分のためにやればいい。公共の利益のため、などと気取る必要はない。自分自身の利益を追求していれば、つまり、自分の儲けだけを考えて行動していれば、「見えざる手」(invisible hand)に導かれて、自然と社会全体の利益にも合うようになるものだ。

 1776年に刊行された「国富論」(岩波文庫の中に立派な日本語訳があります)の中で、アダム・スミスは上のような趣旨のことを述べて、自由放任(レッセ・フェール)の考えを強く押し出しています(岩波文庫「国富論」2、P.303~P.304)。この自由主義を基調とした自由放任主義の考え方は、その後も脈々と受け継がれ、現在、グローバリゼーションの名のもとに進められている規制緩和の根拠の一つとなっています。
 しかし、自由主義といい、自由放任主義といっても、無法なことまでも許容するものではありません。自分の利益のことだけを考えて、自由にやってもよいということは、何をやっても構わないということではないのです。偽りの行為を行なって人を欺いたり、利益を追求するあまり、社会に迷惑をかけることなどトンデモないことです。スミスが考えている良識ある市民社会においては、当然のこととして、そのような非違行為は念頭に置かれてはいません。

 ところが、何を勘違いしたのでしょうか、

儲けるためであれば何をやってもよい。

とか、あるいは、

他人に不測の損害を与えることになったとしても、あるいは社会に迷惑を及ぼしたとしても、自分の利益にさえなればよい。

といった、トンデモない考えが一部に横行しているようです。悪辣(あくらつ)な高利貸しの代名詞ともなっているヴェニスの商人、シャイロックも真っ青といったところです。
 ライブドア、村上ファンド、リーマン・ブラザーズなどがそうですし、耐震偽装とか、食料品をめぐる数々のインチキの根底にあるのは、自由放任主義をはき違えた誤った考えです。
 アダム・スミスの言葉を借りれば、「見えざる手」によって、偽りの行為とか社会全体の利益に反するような行為は、いつの日か必ず排除されることになるようです。「見えざる手」は私がさきに用いた「経済合理性」という言葉に置き換えてもいいでしょう。そして、経済社会を貫徹している「見えざる手」、すなわち経済合理性を客観的に証明するものこそ、私が目指している会計工学に他なりません。

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 ここで一句。

“夫のは エコというより ただのケチ” -久喜、青毛のアン。

 

(毎日新聞、平成20年10月26日号より)

(我が配偶者もまたしかり。家中の電灯をつけているといっては嘖(ころ)はられ、湯船にあふれるばかりの湯を張っているといっては嘖はられ、余計なモノを買ってきたと言っては嘖はられ。逢瀬に立ちはだかるママゴンの歌が、何故か浮かんできたりして。“誰そこの 吾がやどに来呼ぶ たらちねの 母に嘖(ころ)はえ 物思ふ吾を”(万葉集No.2527)-あなたのために叱られて身を縮めている私なのに、人の気もおかまいなしに、今夜もまたコトコトと。)

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