江戸時代の会計士 -8

次いで、領民たちとの対話に移ります。

日時を取り決めて、百姓、町人の主だった者達をお城の大広間に召集。同時に、老中、諸役人にも同席を要請。

領民たちを前にして恩田木工は、この会合が藩からの一方的な申し渡しの場ではなく、領民の意見に耳を傾ける場であり、その趣旨は対話にあることをまずもって強調します。

「自分の働きにてこの役儀相勤まる事にこれなき故、今日皆の者どもと得(とく)と相談致す儀これあり、呼び寄せ候間、先ず手前が申す儀を一通り聞て、その上にて皆々の存寄(ぞんじより。思うところ。意見)を申すべく候。」
(勘略奉行の大役は私一人でできるものではない。よって、今日皆の者とじっくりと相談したいことがあってここに呼び寄せた次第。まず私が話すことを一通り聞いて、その上で皆の者の思うところを申し出て欲しい。)

つまり、恩田木工は、危機に瀕している藩の財政を建て直すために、まず具体的な提案を一つ一つ提示し、それに対する領民の素直な考えを聴こうというのです。
実際に具体的な方針を7つ、領民に提案し、それらに対する意見を聴き、同意または不同意を問いかけています。
第一の提案は、領民に対して約束したことはキチンと守る、従来のような朝令暮改のやり方は断固として廃するということでした。

“先づ手前儀、第一、向後(きょうご)虚言(うそ)を一切言はざるつもり故、申したる儀再び変替(へんがえ)致さず候間、この段兼(かね)て堅く左様心得居り申すべく候。”
(まず私は第一に、今後ウソは一切言わないつもりであるから、ひとたび口にしたことは決して変更しないので、この点、皆にはしっかりと心に留めておいてもらいたい。)

ウソはいわない、約束は守るというのですから、領民としては願ったりかなったりです。

“只今までも御役人様の嘘(うそ)を仰せられ、御だまし候には難儀(なんぎ)仕り候処(ところ)、向後仰せられ候儀を再び変改(へんがえ)遊ばされずとの御事、千万有難く存じ奉り候。諸人大慶(たいけい)この上なく御座候。”
(従来、お役人様方がウソをおつきになり、私共をだましてこられたことにつきましては悩み苦しんできたところでございますが、今後はお約束なさったことを再び変更なさらないとのこと、誠にありがたく存じます。私ども一同、この上ない喜びでございます。)

公約を守るということに加えて、木工は、

“さて又、向後は手前と皆の者どもと肌を合わせて、万事相談してくれざれば勘略も出来申さず、手前の働きばかりにては勤まらず候間、何事も心やすく、手前と相談づくにしてくれよ。”
(さて又、今後は私と皆の者どもと肌を合わせていきたい。何ごとも相談してくれないことには倹約も出来ないし、私一人の力では大役を全うすることができないので、何ごとも気易く私と相談づくにして欲しい。)

と、申し向けます。今後はどんなことでもいいから、自分に直接、気軽に相談を持ちかけてくれ、と言っているんですね。
この木工の言葉は、明治維新を遡ること実に100年以上も前の江戸中期のものですから驚いてしまいます。決して上からの強権的、一方的なものではなく、また“由(よ)らしむべし、知らしむべからず”といった閉鎖的、密室的なものでもありません。オープンな形で問題を提起し、官民一体となってことにあたろうとしているのです。
慶応4年3月14日、天皇(後の明治天皇)が、京都御所の紫宸殿(ししんでん)で、神々に誓って「五箇条の誓文」を読み上げます。
その冒頭に唱われた国家としての基本方針は、

“広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ”

というものでした。維新政治の根本理念を高らかに宣言したものです。
恩田木工は、松代藩という一小藩の中ではあるものの、また変則的な形ではあるものの、まさに“万機公論に決すべし”を実行しようとしたのでした。

―― ―― ―― ―― ――

ここで一句。

“うまくウソをついているなあ大人たち” -小牧、比呂風。

 

(毎日新聞:平成17年5月31日号より)

(信義とか信頼が軽んじられてきた日本。衣食足りて礼節を忘る?)

 

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