「福沢諭吉の正体」-⑤
- 2014.09.09
- 山根治blog
簿記、福沢諭吉のいう「帳合の法」において要(かなめ)になるのは仕訳(しわけ。福沢は清書と訳している)である。商取引を借方と貸方に分解すること(「取引の借貸を定むること」)だ。前々回述べた通りである。
この仕訳なるもの、よく考えてみると一筋縄でいくシロモノではない。何故借方になるのか、あるいは何故貸方になるのか疑問を抱いたら、もういけない。その理由を考えだしたら訳が分らなくなってしまうのである。前回述べた通り、簿記そのものが仮定にもとづく産物であるからだ。
そのために私達は、商業高校一年生の時に、仕訳の原則を理屈抜きで暗記させられた。
+資産の増加は借方に、資産の減少は貸方に。
+負債の増加は貸方に、負債の減少は借方に。
+資本の増加は貸方に、資本の減少は借方に。
+費用の増加は借方に、費用の減少は貸方に。
+収益の増加は貸方に、収益の減少は借方に。
これだけのことである。これを来る日も来る日も暗唱させられた。私が小学校4年生の時に暗唱させられた「五箇条の誓文」のときと同様である。
しかし、理屈をこねるなと言われれば、こねてみたくなるのが人情だ。ましてや生意気盛りの高校一年生だ。
クラスの一人が恐る恐る手を挙げて質問した。
クラス全体がどよめいた。みんなが暗唱しながらも同様の疑問を抱いていたからだ。
このときのセンセイの反応が面白かった。明らかに当惑している。答えることができないのである。
この日は問答無用とばかりにセンセイにねじふせられてしまったが、次の授業のときに一(ひと)騒動が起きた。
授業が始まる前からクラスがザワついている。簿記のセンセイが登壇するのを手ぐすね引いて待ち構えていたのである。数人が集って、予(あらかじ)め質問責めの準備をしていたものとみえる。
高校一年生といえば、思春期まっただなかのガキである。私など、好奇心旺盛なガキそのものであった。連日、面白くもない簿記の授業に皆がウンザリしていたところだ。
それが、なに気なく発した質問に、センセイが立往生(たちおうじょう)して答えに窮(きゅう)したのである。本能的に面白いことが起るに違いないと察した連中が綿密な打ち合せを行った。謀議である。センセイを困らせることを目的になされた悪ガキによる企(たくら)みだ。
センセイが黒板の前に立った。すかさず一人の生徒が勢いよく立ち上がった。前日質問した生徒ではない。昨日の生徒とは違って恐る恐るどころか、ヤル気満々である。
口では寝ないで考えたと言いながらも、その実、しっかり寝たことが明らかな顔色である。昨夜は、センセイの困惑した顔を楽しみにして熟睡したに相違ない。この生徒、前日の貸付金とか借入金に加えて、資本とか当期利益にまで及んだことから、収拾がつかなくなってしまった。
もともと資本にしても当期利益にしても、いくつかの前提(仮定)をもとにして計算された机上のもので、その実体は存在しない。いわば架空のものだ。それをどこにあるのかと問われても答えることはできないのである。簿記のセンセイ、とうとう教壇の上でカンシャクを起してしまった。
謀議は成功裡に終った。謹厳実直な簿記のセンセイが青筋を立ててカンシャクを起こしたことは、私を含む悪ガキ共にとっては望外の成功であった。
それ以後、簿記の授業が無味乾燥なものから面白いものへと変容していったのは言うまでもない。
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ここで一句。
(「私、愛してる?」「愛してる、愛してる!」)
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