天の逆手(あまのさかて)-1

 「天の逆手(あまのさかて)」という言葉がある。事代主神(コトシロヌシノカミ)が国譲りの際に打ち鳴らした拍手(かしわで)のことだ。

 大国主命(オオクニヌシノミコト)の御子神である言代主神(コトシロヌシノカミ)が、天照大御神(アマテラスオホミカミ)が遣わした神の強談判に屈して国譲りを承諾し、「この国は、天つ神の御子に立奉(たてまつ)らむ」と言い残して、自らは乗っていた船を蹈(ふ)み傾(かたぶ)けて、「天の逆手を青柴垣(あをふしがき)に打ち成して」隠れていった(死んでいった)と伝承される中に出てくる拍手のことだ(古事記、岩波文庫版、P.61)。

 「天の逆手」については、一体どのような意味なのか、どのような所作をするのか、昔から諸説紛々、未だに定まっていない。
 後手(うしろで)に叩く、手の甲と甲を打ち合わせる、頭の上で打ち合わせる、いずれも通常の拍手の作法とは異なったものと考えたり、意味については、呪術の一種ではないかとする説がある(注)。この呪術説、平安時代の「伊勢物語」96段にでてくる「天の逆手」がまさにそれだ。呪術(かしり。麻自那比(まじなひ))の意で用いられている拍手である。

 その後、契沖、本居宣長(古事記伝)も同様の解釈をし、現代の学者の多くもそれを踏襲している。
 古代出雲王国が恨みを残して滅亡したという伝承をもとに、「逆手」を字義通りに解釈したものとも考えられるし、あるいは、古事記の作者である太安麻呂(おほのやすまろ。多品治(おほのほむじ)の息。古代出雲王国につらなる家柄)が、敢えて「逆」の字を用い、恨みの思いをひそかに込めたものとも考えられている。
 このような呪術的な解釈に真っ向から異を唱えたのが伴信友(ばんのぶとも)だ。伴信友のプロフィールは次の通り。

『江戸後期の国学者。近世考証学の泰斗。若狭小浜藩士。1821年(文政四)致仕後、力を和漢の学に傾け、本居宣長没後の門人。著「比古婆衣(ひこばえ)「仮字本末(かなのもとすえ)」「長等(ながら)の山風」など。(1773-1846)』(岩波書店、広辞苑)

 伴信友と同時代の国学者に、平田篤胤(ひらたあつたね)がいる。伴信友と同様、本居宣長の没後の門人で、伴より3歳年下である。

『江戸後期の国学者。国学の四大人の一。はじめ大和田氏。号、気吹舎(いぶきのや)、真菅乃屋(ますがのや)。秋田の人。本居宣長の没後の門人として古学の道に志し、復古神道を体系化。草奔(そうもう)の国学として尊王運動に影響大。著「古史徴」「古道大意」「霊能真柱(たまのみはしら)」など。(1776-1843)』(岩波書店、広辞苑)

 この2人、たがいに深く認め合っていた。信友に宛てた書簡の中で篤胤は、「神の結び給へる兄弟なること決なし」とまで断じ、「故翁(本居宣長)の未作竟(いまだ作りおえざるところ)あることを、君と吾と兄弟となりて作固めてよと、幽に結び賜へるならん」と述べ、2人の間には「極めて幽き契」があるはずだとまで踏み込んでいる(大鹿久義編著「伴信友来翰集」-錦正社。P.181~P.183)。神が介在しているだけに、「管鮑(かんぽう)の交(まじわ)り」をはるかに超えた間柄であるというのである。
 復古神道の体系化を目指した平田篤胤は、訓詁(くんこ)、考証学の領域を大きく踏み外し、いわばオカルト的な領域に立ち入ることになった。神道が、復古神道の名のもとにカルトと化したのである。明治維新に際して、神道が唯一の宗教、即ち国家神道とされるに至った背景には、カリスマ性を帯びた平田篤胤の存在が大きいとされている。
 一方の伴信友はどうか。篤胤と同様に宣長を師と仰ぎ、同門の篤胤に、年上ながら一目も二目も置いていた信友ではあったが、篤胤とは決定的に異なるところがあった。それは、訓詁、考証学に徹したことだ。篤胤のようにオカルトの分野に踏み入ることはなかった。冷徹なまでに考証にこだわる生き方を貫いたのである。

(この項つづく)

(注)「天の逆手」(1) 呪術を行うときにする手の打ち方。 (2) (転じて)恨みのろうしぐさ。(小学館、古語大辞典)

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 ここで一句。

“神の手も名医もおらず長寿村” -熊本、ピロリ金太

(毎日新聞、平成25年7月9日付、仲畑流万能川柳より)

(“ノーベル賞 経済学者が 自己破産”)

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