松江の庭-6

 『松江の庭』に面する我が寓居、-鴨長明が住まいとした方丈の庵(いおり)、あるいは私が14年前に291日間ブチ込まれていた松江刑務所拘置監の独房をイメージしてこしらえたものだ。電話もなければテレビもない。飲み物は水だけで、コーヒー、お茶、ましてや酒などは置いていない。

 このような寓居にただ一つだけの贅沢がある。畳、机、マット、枕、衝立、行灯、ステレオ・ラックを特別に誂(あつら)えたのである。一人の匠(たくみ)の手になるもので、全て島根の桧と杉が用いられている。



 荒木登氏、当年65才。昭和20年1月、島根県平田市(現出雲市平田町)に生まれる。平田中学卒業後直ちに、父道則氏に師事して建具職人の道へ。以来50年、この道一筋を歩んできた匠(マイスター)である。しかしこの人、並の匠ではない。単に秀れた腕を持っているだけではなく、創意工夫に長(た)けているマイスターだ。

氏が考案したのはWスリット工法と呼ばれているもので、木材の表と裏の両面に切れ込みを交互に入れることによって、木材の表面積を飛躍的に拡大させ、木材の香り成分(アロマ)を飛散させ易くしたものだ。
 氏はこのWスリット工法を完成させるのに10年の歳月を要している。その間、Wスリットによる香りの効能だけでなくクッション効果についても、医学的な効用を検証すべく、医大とか整形外科の開業医に試作品を持ち込み臨床実験まで行ない、腰痛等の改善に資することをデータによって確認している。アイデアマンであるだけでなく、地道な努力家であることを示すものだ。
 荒木氏に出会ったのは昨年の暮のこと。ケーブル・テレビで紹介されていたので、氏の工房まで会いに行った。
 Wスリット工法による襖(ふすま)とか畳の現物を目にして、これこそ私が年来求めていたものであると確信した。

 香りについては、マニアといえるほどではないまでも、身の回りに何かしらの香りがないと落ち着かない。これまでいろいろと試してきたが、香については東大寺の「薫風」と銘した線香が気に入っているし、アロマについてはラベンダーが私に一番フィットするようだ。何年かに一度奈良まで出向き、大仏様にお詣りかたがた銘香「薫風」を手に入れるようになって久しい。ラベンダーは猫をデザインした白磁のランプの受け皿に注いで香りを楽しんでいる。

 20年ほど前、中古家屋を求めて改装した折に、屋根裏の物置を私の書斎にしようと考えて、天井、床、壁の全てを桧の間伐材で覆い、桧の香りを部屋に充満させようとした。
 ところができ上がった部屋は私の期待に反し、それほどの香りがしない。このために、全く使うことなく今もそのまま放ってある。
 荒木登氏に話したところ、
「間伐材では十分な香りがでない。杉でも桧でも樹齢が50年以上のものでないと香りの役割を果たさない」
と教えられ、得心した。

 このようなこともあって、桧の香りが充満する部屋をなんとか手に入れようと考え続けていたときに出会ったのが荒木氏であり、氏の考案になるWスリット工法であった。
 私の籠の端の寓居は、卓越した匠の手作りの作品で満たされ、それらが放つ木の香りで充満している。一日2,3時間、この部屋に籠(こも)っては、ネットから引っ張り出した九州大学本「大鏡」の書写を楽しんでいる。私の至福のひとときである。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“信号は青だが向こうに妻が居る” -枚方、我楽多。

(毎日新聞、平成22年5月29日付、仲畑流万能川柳より)

(渡るか、止まるか、それが問題だ。渡ればなんだか鬱陶しい、止まれば止まるでカドが立つ、とかくこの世はままならぬ。ハムレットと草枕の心境だったりして。)

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