眼からウロコ – 「司法に経済犯罪は裁けるか」 を読んで-1

 まさに、眼から鱗(ウロコ)が落ちる思いでした。この5年来、私の中に滞(とどこお)っていたモヤモヤとした気持ちが一気に晴れたのです。



 自ら刑事被告人の汚名を着せられ、刑事法廷に引きずり出された結末は、無罪と有罪とが入り混じったものでした。国税と検察とがインチキの限りを尽して断罪しようとした巨額脱税事件(本件)が無罪となったのは当然のことでしたが、オマケのようにくっつけられて起訴された公正証書原本不実記載・同行使等(別件)については有罪とされ、最高裁まで争ったものの有罪判決が覆(くつがえ)ることはなく、執行猶予付き(3年)ながらも、一年六ヶ月の有罪が確定。禁固(きんこ)以上の刑に処せられると、国家資格の欠格事項に触れることになりますので、刑の確定の時をもって、会計士と税理士の資格が、執行猶予期間である3年の間使えなくなりました。この間のいきさつについては、

-『冤罪を創る人々

において詳述したところです。

 そこでは、国税と検察とがいかにして冤罪を創り上げていったのか、時を追って明らかにいたしました。インチキに携わった人物については、国税関連で15人、検察関連で15人、公職にある人物であることから敢えて実名にしています。国税(マルサ)が架空のシナリオを作成し、企業会計と税務に無知である検察がその架空のシナリオの上塗りをして強引に起訴し、公正な裁きを期待していた裁判所までも、別件については検察の誤った主張をそのまま鵜呑(うの)みにして、まさかと思っていた有罪を押し通してしまいました。
 別件の有罪が確定したのは、5年前の平成15年10月4日。何故有罪になったのか、私にはどうしても納得できなかったことから、この5年間、私の脳裡には

「何故だ?」

という疑問符がこびりついて離れることがありませんでした。判決文の中に、何故有罪にするのか、納得できるような理由が記されていなかったからです。つまり、一審、二審ともに、判決の中には、有罪とする明確な理由が欠けており、最高裁は法廷を開くことなく、内輪の書面審査だけで門前払いをしていたのです。
 私の弁護人をはじめ、何人かの法律専門家に私の疑問をぶつけてみたのですが、納得できる回答を得ることはできませんでした。私に下された判決文の中に有罪とする確たる理由が存在しないことについては、ほとんどの人が指摘するのですが、理由の欠けている判決、つまり、採用された証拠からいかにして犯罪事実が証明されているのか、その筋道の欠けた判決が果して許されるのかどうかについては、誰一人として解き明かしてくれる人はいなかったのです。

 私は、これまで、
+検察官、裁判官のモラルハザード(倫理観の欠如)
+司法システムの制度疲労
の2つを、不当な逮捕・起訴と不合理な有罪判決の理由として考えてきましたが、もちろん、心から納得できるものではありませんでした。それらは余りにも漠然とした理由であり、今にして思えば、なんとかして自分を納得させようとする、いわば方便にすぎないものだったようです(「冤罪を創る人々」、“冤罪の捏造と断罪の基本構図”、“検察官訴追システムの実態”、参照のこと)。

 畏友である会計士の細野祐二氏から一冊の本が送られてきました。それは、氏の新著、

でした(細野会計士については「続・いじめの構図 -7」参照のこと)。
 細野氏は、自身の血のにじむような冤罪体験をベースにして、すでに、
-『公認会計士VS特捜検察』-日経BP社
-『法廷会計学VS粉飾決算』-日経BP社
の二冊を世に問うています。二冊とも多くの人々によって受け入れられ、共にベストセラーになっています。友人の一人として慶賀に堪えません。
 20年以上も会計士として内外の監査の第一線で働き、しかも災難としか言いようのない冤罪事件に巻き込まれ、その受難を契機として会計士のワクを超えて徹底的な思索を行った、日本を代表する秀れた会計士にしてはじめて書くことのできた労作と言っていいでしょう。
 送られてきた新著は、前記二冊の延長線上にあり、細野会計士の幅広い思索が更に深まっているものです。そこには、冤罪をいとも簡単に生み出す、現在の司法制度の欠陥が摘示され、氏が絶望と苦悩の末に見つけ出した冤罪を未然に防止するための解決策が明記されており、それこそ私の眼からウロコを落とさせるものだったのです。

(この項つづく)

***【細野祐二氏の著作】
-『公認会計士VS特捜検察』-日経BP社
-『法廷会計学VS粉飾決算』-日経BP社
-『司法に経済犯罪は裁けるか』-講談社

Loading