178 続・いじめの構図 -22

***その22)

 税理士登録が完了したこと、それは職業会計人としての私が、再び五体満足になったことを意味する。税務当局と真正面から対峙できるということだ。

 日本書紀に、『虎に翼(つばさ)を着(つ)けて放(はな)てり』というフレーズがある。天智天皇が、大海人皇子(おほしあまのみこ、後の天武天皇)に皇位の継承をさせようとしたところ、皇子はそれを固辞、吉野に隠遁したことを称して、時の人が「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」と噂したというのである(同書、巻第二十八、天武天皇上、即位前紀)。

 東洋にあって、虎は高貴な存在、かつ、地上最強の動物とされている。それに翼がついたらどうなるか、地上だけでなく、空をも飛ぶのであるから、何とも手のつけられない強力無比な存在になるということだ。

 税理士の再登録が完了したとき、私の脳裏に真っ先に浮んだのが、この虎に翼という日本書紀のことばであった。税理士資格の停止、3年間の屈辱的な桎梏(しっこく)から解放されて自由になったことが、翼のイメージにつながったのである。
 もっとも私は、虎ほど強くはないし、高貴な存在でもない。大工の倅であり、現在は一介の会計屋であるにすぎない。とすると、さしずめ猫といったところであろうか。しかも、ペルシャとかシャムのように高貴なイメージの猫ではなく、わが愛する日本猫で、ネズミを追っかけまわし、スキあらば魚屋の店先からサンマをかっぱらってくるノラ猫だ。丹下左膳ほどではないが、眉間にケンカ傷のあるドラ猫だ。夏目漱石の「吾輩は猫である」に登場する、車屋のクロといったところか。
 「吾輩」が、クロの戦歴ともいうべき、とっつかまえたネズミの数について、おそるおそる

「君などは年が年であるから大分とったろう」

と水を向けたところ、

「たんとでもねえが、三四十匹はとったろう」

と、小鼻をピクピクさせながら自慢するクロ猫といった図柄である。
 しかも、このクロ、魚屋からサンマをチョロまかしては、天秤棒でしたたかにぶちのめされて半殺しの目にあっている。手負いの猫である。

 このように考えてくると、私は、国税と検察から半殺しの目にあい、満身創痍(まんそうい)の身となった。車屋のクロと変るところはない。手負いの猫ならぬ、手負いの会計士である。
 幸運にも九死に一生を得た。再び生を得て気がついてみたら、ナント翼が生えていた。これまで以上に自由自在に動き回ることが保証されたのである。この翼、考えてみると私だけの特権ではない。その気になりさえすれば、誰でも簡単に手に入れることができるのである。
 その翼とは何か。ズバリ、インターネットである。この10年の間に、飛躍的な進化をし、利便性が高まったために、現在、ブログを開設している人の数は800万人を超え、ネット利用者はその10倍の8000万人を超えている。誰でも手軽に自由に情報の発信ができるようになった。しかも、発信した情報は、Web空間で半永久的に存在し続けるのである。これを活用しない手はない。
 これまでは、発言しようとすれば、一定のマスコミを通じてするしか方法はなかった。マスコミは現在でもそうであるが、権力、ことに強大な暴力装置ともいえる国税とか検察に対しては、シッペ返しを恐れるあまり、自ら批判の口を閉ざしてきたし、批判的な発言をする者にも発言の場を与えようとしてこなかった。自主規制という名の佞媚(ねいび)である。
 しかし、インターネットが急速に普及し、情況が一変した。既存のマスコミに頼らなくとも、個人が自由に情報発信できるようになった。情報の発信者が責任の所在を明らかにして、つまり匿名ではなく実名で情報発信する限り、何でも言えるようになったのである。当然のことながら、発信する情報についての全責任を負い、民事・刑事両面で訴えられることを覚悟しなければならない。更には、仕事の上での不利益も甘受しなければならない。
 このような覚悟さえあれば、たとえどのようないじめにあおうとも、切り抜けていけるのではないか。いじめは、こそ泥の類の犯罪であり、元来、隠花植物のようなものだ。まともな日の光に耐えられるものではない。いじめの具体的な事実を、できるだけ客観的に摘示し、公開という日の光に晒すことによって、いじめという隠花植物は、勢いを失ない、枯れはててしまうこと、必至である。ネットによる、こそ泥退治といったところか。 (この項おわり)

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