疑惑のフジテレビ -号外

ブログに寄せられた2つのコメントについて。



コメントNo.[563]。



同窓の先輩、中路信様。私の拙文をお読みいただき、その上心のこもったコメントまで賜りありがとうございました。心から御礼申し上げます。

増田四郎先生。久しぶりに眼にした先生のお名前が、私を40年以上前に引き戻しました。寮のさほど広くない畳敷きの集会室で、一夕、増田先生を囲んで夜の更けるまで話し合ったことが、まるで昨日のことのように想い出されます。一緒にお茶をすすり、駄菓子を食べながら、押しくらまんじゅうのようなギュウギュウづめの状態の中で、ヨーロッパ中世史の碩学に親しく接することができたのは望外の幸せでございました。

泰ちゃんゼミ。この言葉も何年ぶりに接したことでしょうか。私達は高橋ゼミの最後から二番目のゼミテンでした。私達11名のゼミテンの全てが敬愛してやまなかった高橋先生の面影とお声が甦り、思わず眼頭が熱くなってしまいました。
中路先輩も、そして私も、何年間か過した小平と国立の木造の寮は今はありませんが、ともに学び生活した多くの仲間達の想い出と共に、私の心の中にしっかりと息づいて残っております。


コメントNo.[581]。史嶋桂様。

「溝に落ちた犬を叩く」

このことわざを覚えたのは、今から40年ほど前、いっぱしの文学青年気取りで、哲学とか文学にのめり込んでいたときのことです。
寮の先輩に御殿場出身の湯川和彦という人がいました。
この方は、何回か留年を繰り返しており、いわば寮のヌシのような存在でした。異能の人であり、小学生時代に夏目漱石全集を読破し、私が初めて出会ったころには漱石の全作品を暗記していました。
「寸鉄人を刺す」を地でいく、文字通りカミソリのような先輩でした。この方からは眼光紙背(がんこうしはい)に徹する本の読み方をはじめ、多くのことを教えていただきましたが、中でも古代ギリシャについては、2人でどれだけ多くの時間を割いたのか分らないほど議論し、話し合ったことでしょうか。

古代ギリシャには数多くの哲学者が輩出し、それぞれがユニークなエピソードと共に後世に名を残しています。
変り者がひしめいている中でも、一段と突き抜けた変り者は、シノペのディオゲネスでしょう。
ボロを着て街中を歩きまわり、食物をガツガツと犬のように食べ、公衆の面前でも平然として自慰にふけったり、媾合したりしましたので、アテネ市民は彼のことを“犬”と呼び、プラトンは“狂えるソクラテス”と呼んでいました。

“犬のディオゲネス”

アンティステネスと並んで、キュニコス派(犬儒学派。キュニスモス-犬のような生き方。)の開祖とされている奇人哲学者の名は、湯川和彦さんの口からしばしば発せられていました。その生きざまに共鳴するところが多かったのでしょう。
私の記憶に残っている「溝に落ちた犬を叩く」という諺は、生きた百科辞典ともいうべき湯川さんがよく口にしていたものです。

『キュニコス派の思想にかぶれて犬のような生活を送っている連中(=溝に落ちた犬)は、たとえ仲良くしていた間柄であっても、根性を叩き直してやらなければならない。』

といったところがもともとの意味合いであったようです。しだいに言葉が一人歩きをして、あるいは、

『不幸に陥った人をよってたかって叩きのめす』

という意味合いのものに転じていったのかもしれません。

ちなみに、お隣の韓国にも、「川に落ちた犬は棒で叩け」という諺があるようです。洋の東西を問わず、犬とか猫は、人間の古くからの友人のような存在ですので、さまざまな形で諺に取り入れられているのでしょうね。

―― ―― ―― ―― ――

ここで一句。

“あの女性(ひと)の正体見たりバイキング” -袖ヶ浦、カトちゃん。

 

(毎日新聞:平成18年1月19日号より)

(頭の中はエピキュリアン、行動だけがキュニコス派。それって、オバタリアン?)

 

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