冤罪を創る人々vol.74

2005年08月09日 第74号 発行部数:410部

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「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-

日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。
マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。
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山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ
株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント
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●(第七章)総括

「(2) 被疑者 ― 犯罪の疑いを持たれている者 ―」より続く
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(3) 容疑者 ― 犯罪の疑いを持たれている者で、逮捕された者 ―

一、 容疑者という言葉は、刑事訴訟法上のものではなく、一般に、
被疑者が逮捕された場合に使用されているようである。

二、 私のタイトルが、被疑者から容疑者に変わったのは、平成8年
1月26日午前8時40分、松江地方検察庁の三階にある地検検事
室において、二人の検察事務官立会のもとで、中島行博検事が私の
面前で逮捕状を読み上げて、執行した時である。
このときの逮捕容疑は、「公正証書等原本不実記載、同行使」で
あり、明らかに別件逮捕であった。

三、 逮捕されて容疑者となると、身柄が拘束されるほかは、法的に
は被疑者であることに変わりはないものの、一般社会の取り扱いが
一変する。
各マスコミが一斉に報道に踏み切り、容疑者に対して集中砲火が
浴びせられる。社会的制裁の最たるものだ。
私の場合、時期が確定申告の直前ということもあって、公認会計
士による大型脱税事件というセンセーショナルな標題のもとに、マ
スコミの恰好の餌食にされた。この為、私の妻は、十日程体調を崩
し、寝込んだほどである。

四、 推定無罪という言葉がある。何人(なにびと)といえども、刑
が確定するまでは、無罪であると推定されるというものだ。
建前は確かにそうである。しかし、実際には、逮捕されただけで
マスコミのバッシングによって、犯罪人として指弾され、社会的生
命が葬り去られることが多い。推定無罪ならぬ推定有罪である。こ
れが日本社会の現実である。

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●山根治blog (※山根治が日々考えること)
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「江戸時代の会計士 -1」より続く
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・江戸時代の会計士 -2

恩田木工の行なった財政改革は、この「日暮硯」で描かれている
ものとは、史実的に必ずしも一致しないと言われています。ただ、
私には、「日暮硯」の内容について史実と突き合わせて考証する能
力もなければ、興味もありませんので、以下、「日暮硯」の記述の
ままに、恩田木工の財政改革の足跡を辿ってみます。

信州松代藩10万石、第6代当主真田伊豆守幸豊。宝暦2年
(1752年)、13才で襲封(しゅうほう。領地を引き継ぐこと)
して3年目の宝暦5年(1755年)、真田侯は、当時39才であっ
た末席家老の恩田木工を江戸屋敷に呼び寄せ、勘略奉行を仰せ付け
ます。 人格、識見ともに秀れているとの評価の高かった若い恩田
木工に白羽の矢を立て、窮迫していた藩の財政建直しを命じたので
す。
勘略奉行(かんりゃくぶぎょう)というのは、倹約と財政整理の
ための責任者のことですが、主君の命を受けた恩田木工は、文字通
り、一命を賭してやり抜こうと決意します。しかし、恩田木工は、
主命だからといって唯々諾々として勘略奉行の職を引き受けた訳で
はありません。殿様に対して、引き受けるための条件をしっかりと
出しているんですね。

つまり、

“右の役(勘略奉行のことです)相勤め候には、もし拙者申す儀を、
『左様はならぬ』と申す者御座候ては相勤まり申さず候間、老分の
方を始め諸役人中拙者申す儀を何事に依らず相背くまじくと申す書
付相渡され候様に仕(つかまつ)りたく願奉り候。”

(右の役目を勤め上げますためには、もし私が提案いたしますことに
ついて、『そんなことはまかりならぬ』と言われることがありまし
たなら、勤めを全うすることができませんので、老中の方々をはじ
めお役人の方々は私が提案することについて、どのようなことでも
決して反対しないという念書をいただきたいと存じます。)

と、訴訟(そしょう。つつしんで申し上げること。嘆願)していま
す。
藩の重役の中でも一番若い末席家老の身としては、たとえ主君の
命令で改革を実行しようとしても、家臣に抵抗されると改革が絵に
描いたモチになることをおそれたのでしょう。
それにしても封建時代の君主の命令に対して、全権委任を明確に
するという条件を提示した上で引き受けたのですからたいしたもの
です。ハラが据わっているんですね。

この時の主君に対する“訴訟”を皮切りに、恩田木工は自らの財
政改革を貫徹させるために、家内一門の引き締めから着手します。
まず、親類を残らず集め、“向後(きょうご)義絶なされ下さる
べく候。”(今後、親族の関係をお絶ち下さい)と申し入れ、妻子、
家来共残らず召し呼び、

“此度の役儀につき、女房には暇(いとま)を遣(つかわ)し候間、
親元へ立戻るべく候。子供は勘当(かんどう)致し候間、いず方へ
なりとも立退き申すべく候。家来共、残らず暇くれ候間、いづ方へ
なりとも奉公相極(きわ)むべく候。”

(このたびの役目を仰せつかったために、妻は離縁するので親もとへ
帰ること。子供達は勘当するのでどこへなりとも行くこと。家来共
は解雇するので新たな奉公先を決めること。)

と申し渡します。
一方的に申し渡された人達にとっては、青天の霹靂(へきれき)、
何のことか分からずパニックに陥ってしまいます。当然のことでしょ
うね。
ここから先は、まるでドラマのような展開がなされていきます。
恩田木工が巧みに一族身内をまとめあげていく力量は並のものでは
ありません。

当時、松代藩だけでなく全国的に藩財政は窮迫の度合いを深めて
おり、各藩はそれぞれのやり方で財政改革を行なっています。
しかし、財政改革といえば、必ずや利害得失が激しくぶつかり、
家臣の間で争いが起ったり、百姓一揆を惹き起こすのが普通でした。
実際に、この松代藩においても、何回か財政改革に手を着けている
のですが、足軽のストライキが起ったり、あるいは百姓一揆が発生
したりしています。
ところが恩田木工の改革はそのようなトラブルが生ずることなく
平穏のうちになされました。困難とされた改革事業がスムーズにな
されたのは何故か。それはひとえに、現状を適確に把握し、その認
識をもとにして藩財政のあるべき姿を構築し、現実に実行すること
ができるプランを領民に提示することができた行政マンとしての卓
越した力量によるものです。
「日暮硯」が江戸時代から注目されており、折に触れて多くの人々
に読みつがれてきたのは、候文(そうろうぶん)でありながら平易
に書かれており読み易いことに加え、改革が日常的に要求される人
達、たとえば政治にたずさわる者、あるいは企業の経営者にとって
実践的な指針を与える格好の教材であったからでしょう。
木工独自の改革を進めるにあたって、まず自らを律し、身近な親
族身内を堅めたうえで、藩全体の改革に乗り出したのは、“隗(か
い)より始めよ”の手本となるものだったのです。

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ここで一句。

“誰にみてほしく花は咲くんだろう” -福島、野地タカ子。
(毎日新聞:平成17年7月23日号より)

(杉浦日向子さん死去。享年46歳。江戸の文化と風俗に没入し、江
戸をとことん愛し、楽しんだ人。現代における江戸の華が美しく散っ
た。ソバ好きの彼女と、自慢の出雲ソバをご一緒し、江戸の話を伺
いたかった。合掌。)

 

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