新しい情報論(認知会計)の構築に向けて

 近く公表する松江市における不祥事の分析結果は、10年来行なってきた検証-情報論としての認知会計の実務的有効性についての検証-の集大成である(『福沢諭吉と自民党政権』参照のこと。)。6000ページに及ぶ公文書を一ト月ほどかけて分析したものだ。

 今年の私の仕事は、これまでの分析結果を踏まえて一般的な理論構築を行ない、新しい情報論を確立することである。この情報論は、会計・税務実務に資するだけでなく、経済学、法律学、歴史学といった社会科学一般の基礎理論となるはずだ。

 

 50年前、一橋大学の大学院に進み学者の道を目指したものの一年半で挫折した。私にとって苦い想い出である。
 今年で私は73歳になる。人生の最終期に至り、視力がとみに衰え、右眼はほとんど失明状態である。私の脳裡には、学生時代に教えを受けた高島善哉教授の姿が去来する。
 高島先生は今の私よりは若く、60歳前後であったはずであるが、ほとんど視力を失っておられ、助手の手助けで登壇され、社会科学概論の講義をされた。
 先生の講義は国立(くにたち)の大教室で行なわれたが、毎回超満員であった。最前列には先生の教えを受けた教授、助教授、講師陣が席を占め、私達学生は後方から先生の名講義を拝聴した。眼がご不自由であったため、講義ノートもメモもなしのフリー・トークであった。理路整然と説き明される先生の講義は、名優さながらの見事なものであった。
 先生が教室に入ってこられると、私たち受講生は立ち上がって万雷の拍手でお迎えし、講義が終わり降壇されると、再び万雷の拍手をもって先生を称え、心から感謝の気持ちを表した。

 私がゼミナールで親しく教えを受けたのは高橋泰蔵教授(「ホリエモンの錬金術 -20」参照)である。高橋先生は、高島教授とは異なり、いわば“静”の人であった。私達はひそかに先生のことを“知のいぶし銀”と呼んでいた。
 ゼミが終ると、11人のゼミナリステン全員が国立の喫茶店ロージナでコーヒーをいただいた。先生には、我々青二才の生意気な話にも耳を傾けてくださるやさしさがあった。
 私達は先生からアダム・スミスの『国富論』とケインズの『一般理論』を学んだ。先生は常日頃、スミスのことを“眼の人(Auge Mensch.アウゲ・メンシュ)”アダム・スミスと称し、高く評価しておられた。私は“眼の人”については、ものごとを見るときには俯瞰(ふかん)する眼、つまり立体的に見る眼をもって対処すべきであり、そのような眼を持っている人のことであると理解している。

 高島善哉、高橋泰蔵、この2人の碩学が鬼籍に入られてからすでに久しい。
 私は50年もの間実務の世界で回り道をして、再び両碩学のもとに帰ってきた思いである。

“歸去來兮(かえりなんいざ)田園將(まさ)に蕪(あ)れなんとす
胡(なん)ぞ歸らざる 既に自ら心を以て形の役と爲(な)す
奚(なん)ぞ惆悵(ちゅうちょう)して獨り悲しむ”

で始まる帰去来の辞。陶淵明42歳、官を辞して晴耕雨読の生活に入る時の詠である。
 高橋泰蔵先生は酒が入ると、「枯れすすき」の歌とともに、この「帰りなんいざ」をよく口ずさんでおられた。
 先生の古稀のお祝いがあった。私を含めた教え子200人余りが如水会館スターホールに馳せ参じた。お祝いの会の音頭をとられたのは一番弟子の長澤惟泰教授。この方は、私の大学院の指導教官であったが、今は亡い。
 お祝いの会から数ヶ月の後、お返しとして高橋先生から一葉の墨書が送られてきた。帰去来の辞であった。私だけでなく、参集した全員に送られたものだ。数ヶ月の間、一字一句丁寧にお書きになったものとみえる。早速額装し、私の宝物の一つとして大切にしている。

 私の学部の卒業論文の予備論文は、『イデアルティプス的概念構成の認識論的定礎』であった。これは多分に思弁的なもので、カントの『純粋理性批判』がマックス・ウェーバーのイデアルティプス論の根底にあることを論じたものだ。私はこの予備論文をもとにして、シュンペーターの『経済発展論』を卒論のテーマとした。
 50年経った今、この思弁的かつ未熟な予備論文が数多くの実務検証を経て、一つの情報論として生まれ変わろうとしている。果して、再碩学が認めて下さるかどうか、私は全力を挙げて完成させる予定である。

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 ここで一句。

”家計簿にお薬代と書く酒代” -坂戸、グランパ

 

(毎日新聞、平成27年1月13日付、仲畑流万能川柳より)

(百薬の長。)

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