「福沢諭吉の正体」-補足3-徴兵令詔書

 明治新政府は、明治5年(1872)11月28日、次のような太政官布告(太政官布告第379号)を発し、徴兵令を定めることになった旨の布告を行った。徴兵令詔書である。「今般、全国募兵の儀、別紙詔書の通り被仰出(おおせいだ)され、相定候條(あいさだめそうろうじょう)、各(おのおの)御趣意を奉戴(ほうたい)し、末々(すえずえ)に至る迄(まで)、不洩様(もらさざるよう)布達可致(ふたついたすべし)。細大の事件は、陸軍海軍両省へ打合可申(うちあわせもうすべく)此旨(このむね)相達候事(あいたっしそうろうこと)。」(句読点、読み下しは筆者) 別紙詔書は次の通り。
「朕惟(ちんおもんみ)ルニ、古昔(こせき)郡県ノ制全国ノ丁壮(ていそう)ヲ募リ、軍団ヲ設ケ、以(もっ)テ国家ヲ保護ス。固(もと)ヨリ兵農ノ分ナシ。中世以降、兵権武門ニ帰シ、兵農始(はじめ)テ分レ、遂ニ封建ノ治ヲ成ス。
 戊辰ノ一新(注.明治維新のこと)ハ、実ニ二千有余年来ノ一大変革ナリ。此際ニ当リ、海陸兵制モ亦(また)、時(とき)ニ従ヒ宜(よろしき)ヲ制セサルヘカラス。
 今、本邦古昔ノ制ニ基(もとづ)キ、海外各国ノ式ヲ斟酌(しんしゃく)シ、全国募兵ノ法ヲ設ケ、国家保護ノ基(もとい)ヲ立(たて)ント欲ス。
 汝百宮有司、厚ク朕ガ意ヲ体シ、普(あまね)ク之(これ)ヲ全国ニ告諭セヨ。」(句読点、改行、読み下し、注は筆者。)

この詔書は、戊辰の一新(明治維新)に際しての日本の軍制のあり方について、朕(ちん。天皇)の考えを述べ、太政官をトップとする百宮有司(政府役人)に対して、全国民に対して告諭(こくゆ。[部下・目下のものに]注意すべき事柄などを言い聞かせること。-新明解国語辞典)せよと命令(めいれい。目下の者に対して、自分の思うままに行動するよう、言いつけること。-新明解国語辞典)したものだ。なんとも面妖としか言いようのない屁理屈が、もっともらしく述べられているのは驚くほかない。つまり、この時点で、この詔を発した天皇(明治天皇)は、日本国における絶対的な専制君主、しかも現人神(あらひとがみ)であったということだ。国民的合意のないままに、いわばドサクサまぎれに、いきなり「万世一系の神」に祭り上げられた明治天皇は、いわば操り人形であった。

1) 慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜、朝廷に対して大政奉還
2) 慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令。
3) 慶応4年(1868)3月14日、天皇(明治天皇)(17歳)が五箇条の誓文を読み上げ、建国宣言。

 いまだ17歳の少年であった明治天皇を、いきなり「万世一系の神」に祭り上げた連中は、いずれも腹に一物(いちもつ)のある面々であった。つまり、江戸時代に国政の中枢から外され経済的にも恵まれなかった連中が仕組んだサル芝居(明治維新)の出発点が、「万世一系の現人神」のデッチ上げであった。この天皇の詔(みことのり。天皇の言葉(を書いたもの)。勅語・詔書など。-新明解国語辞典)を受けて、天皇の下僕である太政官によって発せられたのが太政官布告第879号という訳だ。
 ここに太政官(だじょうかん。もとの読みはだいじょうかん)というのは、

「現在の内閣に相当する、江戸時代までの、朝廷における最高官庁。(狭義では、明治初年設置のそれを指す。長官は太政大臣)-新明解国語辞典」

のことである。

 更に、太政大臣について広辞苑にあたってみると、

「① 律令制で、太政官の最高位にある官。職掌はなく、一種の名誉職。適任の人がなければ欠員とする制で、則闕(そっけつ)の官ともいう。大相国。おおいもうちぎみ。おおきおおいどの。おおいまつりごとのおおまえつぎみ。おおきおおいもうちぎみ。おおきおとど。職員令「-一人、右師範一人、儀形四海、…無其人則闕」
②(ダイジョウダイジンとも)明治維新政府の太政官の最高長官。1871年(明治四)廃藩置県後に三条実美が任ぜられたが、85年に廃官。」

とある。
 つまり、慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が発せられて、徳川家にかわって天皇家が王権かつ神権として復活したのを受けて、朝廷(天皇家)における最高官庁であった太政官(だいじょうかん)が、国家における最高官庁へと勝手に格上げされ、フィクションである神としての天皇の言葉として、全国民に対して絶対的服従を強いたのである。
 先にあげた徴兵令詔書はまさに、「万世一系の現人神(あらひとがみ)」の口を借りて、明治のクーデターを企てた連中が自分達に都合のいいように勝手に定めたものであるということだ。天皇を万世一系と偽ったことといい、更には現人神(あらひとがみ)にデッチ挙げたことといい、姑息なトリックのオンパレードである。
 この時福沢諭吉は38才、維新政府の「御師匠番」として、ゴソゴソと裏の小細工を仕掛け、それが功を奏して、強兵富国、即ち軍国主義への道が定った瞬間であった。

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 ここで一句。

”うちの妻脱げばスゴイは別の意味” -千葉、喜術師

(毎日新聞、平成26年11月25日付、仲畑流万能川柳より)

(…。コメントなし。)

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