縁結びということ-2

“袖振り合うも多生(たしょう)の縁”
(道行く知らぬ人と袖が触れ合うことさえ宿縁による。すなわち、ちょっとした出来事もすべて宿世の因縁によるという意。-広辞苑)

という諺がある。

 「縁結び」が仏との結びつきに始まって、物事との結びつき、人と人との結びつきを経て、男女の結びつきに至ったことは前回述べたところである。

 現在「縁結び」については、第一義的には男女の結びつきがイメージされるようになっているとはいえ、イメージした意識の背後には必ず、もともとの仏との結びつきという観念が存在する。抜け難い潜在的な観念である。

 このことを端的に示しているのが、上記の諺だ。

 男と女の出会いがある。「あふ」である。

“媛女(をとめ)に 直(ただ)に遇(あ)はむと 我(わ)が黥(さ)ける利目(とめ)”(神武記、歌謡)
“直(ただ)の逢(あ)ひは 逢(あ)ひかつましじ 石川に雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ”(直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲)(万葉集・巻2・225番歌)

 あるいは「みる」である。

“たまさかに わが見し人を 如何(いか)ならむ 縁(よし)をもちてか また一目見む”(玉坂 吾見人 何有 依以 亦一目見)(万葉集・巻11・2396番歌)

 たまたま出会った男と女、いつしか関係が深まり結ばれる。望んだからとてできることではない。全て前世からの約束事、宿世の因縁によるものだ。
 冒頭の諺に加えて、上記3つの歌は、日本人の男女の出会いと結びつきの根底にある観念についてあますところなく唱い上げている。

 「縁結び」の対極にあるものとして、「縁切り」がある。「親子・夫婦などの関係を絶って、他人の関係となること。絶縁。」(広辞苑)のことだ。つまり、「縁切り」は、結ばれた縁が前提となっている。この前提が解消されることを、「縁切り」と言っている。いわば事後の「縁切り」だ。
 では、縁が結ばれる前はどうか。ここに事前の「縁切り」が登場する。出会う前に身ギレイにすることだ。身にまといついた罪・穢(けが)れを取り除くのである。
 古来日本人は、罪・穢れを払いのけるためにミソギを行ない、ハライを受けてきた。新たな物事との取り組み、あるいは新たな人々との出会いにそなえて、身ギレイにしておく。水に流して罪・穢れを消してしまうのである。
 ケガレをハライ・浄める、このような考え方は日本人特有のものだ。もともとの仏教には存在しない。儒教にも道教にも存在しない。神ながらの道があるとすれば、神に対峙する姿勢であると言ってもよい。具体的には、「明(あか)き、浄(きよ)き、直(なほ)き誠の心」(続紀、文武元年八月、宣命第一詔)のことだ。
 この「明」、「浄」、「直」の3つは、天皇が臣下に求める忠誠心のことであるが、神が介在しているのは言うまでもない。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“橋下氏 正義のみかたか お笑いか” -福岡、やぞじまえ

(毎日新聞、平成25年7月1日付、仲畑流万能川柳より)

(笑いのとれないお笑いだったりして。)

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