出雲国風土記についてのメモ

***1.勘造日

 天平5年(733年)2月30日勘造(かむがえつくる)。



***2.勘造責任者:出雲臣広嶋

 出雲臣:天穂日命十二世孫、鵜濡淳命之後也(新撰姓氏録、右京神別上)として、神戸臣と同様に天孫とされている。

 しかし、記紀は、天穂日命は高皇産霊尊の命を奉じて、葦原中国に降りながら、大己貴神に「媚附」(記)、あるいは「侫媚」(紀)して三年も報告を怠ったと伝える。出雲氏側の所伝においても、表向きは「媚鎮」(出雲国造神賀詞)と表現は穏やかになってはいるが、基本的には記紀の所伝を認めている形をとっている。

 ところが、出雲における実際の伝承はどうか。極秘とされている出雲国造家文書(おそらく室町時代頃の古文書)の中に「隠忠」という表現がなされていると伝えられているところから、出雲臣は出雲王家と姻戚関係を結んでいるとはいえ、出雲国内における出雲臣広嶋(出雲臣果安の息)の立場は相当以上に微妙なものであったと考えられる。

 従来、出雲国風土記は、記紀とは異なり、地誌として編さんされたものであるから政治的な思惑が入っていない、出雲氏側のストレートな伝承、記録であるとされてきた。

 しかし、出雲臣広嶋を上記のように、「隠忠」の裔であるとするならば、出雲国風土記が多分に政治的な思惑、妥協の産物であった可能性が高い。相当量のフィクション、暗喩あるいは削除があるようであり、出雲国風土記の読み直しが必要では。

***3.勘造主筆:神宅(みやけ)臣金太理
 三宅連。『新羅國王子、天日桙命之後也。而或記以伊久米入彦命(山根注、垂仁天皇)為祖。』『滋野宿禰同祖。但遅麻守之後也。』新羅姓氏録、摂津国諸蕃。

***4.各郡の執筆者:
 海(あま)臣、出雲臣、林臣、社部(こそべ)臣、社部石臣、蝮(たぢひ)臣、物部臣、高善史(たかよしのふびと)臣、若倭(わかやまとべ)臣、日置部(へきべ)臣、部(とも)臣、大(おほ)臣、刑部(おさかべ)臣、神門(かむど)臣、吉備部(きびべ)臣、日置首(へきのおびと)臣、大私(おほきさき)造、品治(ほむち)部、蝮部(たぢひべ)臣、勝部(すぐりべ)臣、額田部(ぬかたべ)臣、日置(へき)臣。
 -多数の出雲王族。

***5.その他
 出雲王国は1800年ほど前に大和朝廷に亡ぼされたとされるが、王族は出雲だけでなく全国に各地の豪族として残存し、それぞれの伝承を伝えている。
 政治はマツリゴト、マツリゴトは「言向け」、「言向け和(やは)す」であり、「和をもって尊しとなす」を基本としたのが日本の国づくりの根幹にあった。出雲における伝承、各地の豪族の伝承、新撰姓氏録、および言語学・民俗学・考古学の知見にもとづく出雲国風土記の読み直しの必要性。

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