クレーマー・橋下徹氏の本性-⑩

 夜郎自大(やろうじだい)という言葉がある。広辞苑によれば、「(漢代の異民族の一つである夜郎の王が、漢の広大なことを知らず、自らを強大だと思って漢の使者と接したことから)自分の力量を知らないで、幅を利かす態度をとるたとえ。-史記西南夷伝」とある。

 相手かまわず、「バカ」とか「畜生」などといった罵詈雑言を言い放ち、自らの発言については都合が悪くなるとクルクルと変えて、口から出まかせの言い訳を恥ずかしげもなく繰り出す異形の人物、橋下徹氏を見ていて、私の中に思い浮かんだのが、夜郎自大であった。国家としてこのような行為を繰り返しているのは、言わずと知れた中華人民共和国だ。両者にはどこか共通項がある。それは何か。

 これまで9回にわたって、クレーマーとしての橋下氏の実態を明らかにし、彼の相当以上に歪んだ性格・本性について論じてきた。
 しかし、これだけではどうしても足りない何かがあることに気がついた。
 極貧の家庭に生まれて、法律ムラの一員になれたものの、保守本流ではないために屈折した優越感を持つに至った人物が、全て橋下徹氏のような歪んだ人格の持主であるかと問うた場合、必ずしもそうではないからだ。

 50年ほど前に書かれた一冊の本がある。滝川政次郎著「遊女の歴史」である。滝川氏は、日本法制史を専攻した歴史学者だ。しかし、この人は文学部出身の歴史学者ではない。法学部出身の法学博士である。以下、前掲書の奥書に記された著者略歴を記す。
-1897年 大阪市に生まる
-1922年 東京帝国大学法学部卒業
-1927年 九州帝国大学教授(法制史担当)
-1934年 法学博士
-1939年 満州国中央図書館籌備処長兼建国大学教授
-1949年 国学院大学教授、近畿大学兼任教授、早稲田大学講師
-現 在   国学院大学名誉教授
-著 書  「日本法制史」「日本社会史」「律令の研究」「律令時代の農民生活」「日本奴隷経済史」「日本行刑史」「日本人の歴史」「非理法権天」等
 この略歴が示す通り、著者は、東京帝国大学の法学部出身であるから、いわば保守本流の有資格者である。しかし、法制史という歴史学に転じたことに加え、奉職する大学も東京大学ではない。九州大学、満州国建国大学、国学院大学等、全て東京大学ではないという意味からすれば傍流だ。
 この段階で著者は保守本流から外れ、権力中枢からは無縁となった。権力とか金銭のバイアスからフリーとなり、純粋な学究としての人生を送ることになった。
 この著書は、昭和40年7月25日に初版が出されているから、著者68才の時の著作である。社会科学の学者として円熟した時期のものだ。主に文献史学の立場から、民族学者柳田国男とその弟子である中山太郎に対して、痛烈な批判を加え、通説とされていた二人の学説に対して異を唱えている。
 通説とされていたのは、遊女巫女起源説、これに対して著者が唱えたのは遊女帰化人説だ。当時、著者だけが唱えていたのであるから確かに異説である。
 万葉集をはじめ多くの古代文献に登場する遊女(うかれめ、あそびめ)のルーツについて、神に奉仕する巫女(みこ)であるとする、柳田・中山説に対して、滝川政次郎は、朝鮮の漂泊民族・白丁族の末裔であると論じている。つまり、我が国遊女の始祖は、朝鮮白丁の渡来民であるというのである。
 その渡来民は傀儡子(くぐつ)族、歌に合わせて操り人形を舞わせる芸人集団である。傀儡子族の女性を「くぐつめ」といい、芸の傍ら売色をしたことから、「うかれめ」とか「あそびめ」と呼ばれたという。
 古代の遊女から江戸時代の遊女に至るまで一貫して信仰されてきたのが百太夫信仰だ。
 百太夫(ひゃくだゆう)は、

「摂津西宮の百太夫社に祀る道祖神。遊女または傀儡(くぐつ)の守り神とされた。」(広辞苑)

とあるように、傀儡人族の守り神であった。

 守り神としての百太夫は、道教の神であり、日本の神のように畏るべきものでもなければ、敬すべきものでもなかった。神を脅したり騙したりして現世利益の追求がなされるというのである。陰陽師の安倍清明に小間使いのようにこき使われた「式神(しきがみ)」(大鏡)や、役の行者に酷使された挙句、不手際を責められてお仕置きを受け呪縛された「一言主神(ひとことぬしのかみ)」(続日本紀、日本霊異記)などが道教の神とされる。百太夫信仰は、このような陰陽道や修験道に多く見られる脅迫信仰の一つであり、これらは中国の道教に起源を持っているとする。
 更に、道教の神・百太夫を信仰してきた遊女・傀儡は、被差別部落の民でもあった。このように論じてきた著者は、漢民族の特性を道教にからめて次のように説明する。

「道教は漢民族の民族宗教であるから、漢民族の国民性と共通なものを持っている。漢民族は、己を華夏、中華と称し、四囲の民族を東夷(とうい)南蛮(なんばん)西戎(せいじゅう)北狄(ほくてき)と称してこれを人間扱いしない。夜郎自大なる民族である。したがって宇宙間に存在する最高のものは、中華の民である自己自身であって、神といえども人力をもって左右し得るものと考えられている。」(前掲書、P.133)

 私を含めたごく普通の日本人からすれば驚くような説明だ。仮にこれが真実であるとすれば、これまでの私の中国観は180度変わらざるを得ないことになる。
 相手の迷惑などお構いなしに、傍若無人の振舞いに及び、ウソでも何でも大声でまくしたて、相手をねじ伏せる。約束したことを守らない。明らかに自らに非があったとしても決して謝ろうとはしない。
 これまで私は、共産主義の理想を掲げて国づくりをしているものとばかり思っていたから中国のやることなすことが私の理解の範囲を大きく超えていたようだ。
 なるほど、共産主義というのはカムフラージュであり、道教の考えにもとづく夜郎自大の民族国家であると見極めれば、納得がいくのである。

 ここで橋下徹氏の本性という本題に立ち帰る。
 仮に、橋下氏のルーツが百太夫信仰などの道教的信仰を有する一族に関連があるとするならば、彼の異常とも思える言動の数々は納得できるものとなる。漢民族が夜郎自大の民であるならば、橋下氏が夜郎自大の人物であったとしても何の不思議もないからだ。橋下氏が忌み嫌う、”血脈“のしからしめるところである。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“猫が舌 ちょっぴりしまい 忘れてる” -茨木、山上秋恵

(毎日新聞、平成24年11月20日付、仲畑流万能川柳より)

“野良猫に そっと手を出し パンチ食う” -和歌山、終日ボーッ

(毎日新聞、平成24年11月24日付、仲畑流万能川柳より)

(猫のいる風景、平和です。)

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