嘉田由紀子氏と小沢一郎氏

 嘉田由紀子氏と小沢一郎氏、この2人に共通するものは何か。主義・主張にブレがないことである。主義・主張だけではない。それにもとづく実際の行動にもブレがない。

 1985年(昭和60年)5月、今から30年ほど前のことである。私達は、国策事業として進められてきた大型の土木工事(中海・宍道湖淡水化事業)を差し止めるために、地域住民一丸となって取り組んでいた。住民運動のリーダーは保母武彦氏(当時、島根大学助教授、現在島根大学名誉教授)。保母氏の呼びかけで、第一回水郷水都全国会議が松江市で開かれた。

 会議において、日本で初めて親水権の提唱がなされ、その親水権の確立のために、(1)水辺を失わない、(2)住民に開かれている、(3)水質を守る、の3原則を柱とする松江宣言が採択された。経済発展の大義のもとに進められた国土開発によって、湖沼環境の破壊が深刻化していた中にあって、良心的な学者達から発せられた松江宣言はまさに時宜を得たものであり、私達の淡水化事業反対運動は、環境社会学の観点からの力強い理論的支援を受けることとなった。

 そのパネラーの一人として出席したのが嘉田由紀子氏であった。当時の嘉田氏は30才台前半、京都大学琵琶湖研究所に籍を置く新進気鋭の環境社会学者であった。

 嘉田氏は、女性らしいソフトな語り口ながらも、男性陣パネラーに伍して堂々の論陣を張り、琵琶湖をはじめとした全国の湖沼が深刻な汚染にさらされている現状を強く訴えていた。
 その3年前、保母氏と私は、3人の仲間と共に、「宍道湖の水を守る会」を結成し、宍道湖の淡水化事業を中止させるべく、住民運動に入っていた。嘉田氏が、住民運動の拠点である松江にまでおいで下さり、琵琶湖の水質悪化を食い止めようと懸命になっている姿を私達に示して下さったことは、淡水化反対運動に真剣に取り組んでいた私達に、大きな力と勇気とを与えるものであった。
 大型の国策事業であった淡水化事業は、その後中止となり、宍道湖は汽水湖のまま残ることになった。淡水化によるアオコ(ミクロキスティスという名のバクテリア)の大量発生とアオコが発する毒性物質、悪臭、死の湖といった最悪の事態を未然に防止できたことを、今改めて、嘉田氏に感謝し、共に喜びたい。

 淡水化事業を強引に推進していたのは、当時の農水省。その農水省の意をくんで、淡水化事業にお墨付き、つまり理論的根拠を与えていた学者がいた。南勲京都大学教授(当時)である。南教授は、汽水湖を淡水化しても水質は悪化しない。悪化しないだけでなく、かえって水質がよくなると主張していた。
 南教授の理論は次の通り。

 汽水湖は、淡水と海水が入り混っている。海水は淡水より塩分濃度が高いために比重が重く、そのために淡水の下にもぐり込んでいる。汽水湖を垂直に見れば、上層に淡水、下層に塩分濃度の高い海水があり、はっきりした境目、塩分躍層が生じている。塩分躍層より常に下に位置している海水は、上下に撹拌されることがないために、溶存酸素量が低いままの状態がキープされる。
 ところが、淡水化すれば、海水が入ってこなくなるから、このような塩分躍層が消滅する。淡水だけになれば、湖の上層と下層とが自由に混じり合うことになり、空中の酸素を湖の底辺にまで取り込むことができようになる。底辺部における溶存酸素量が高まることによって、水質は向上する。

 たしかに、実験室レベルでは南教授のような理屈も成り立つらしい。しかし、現実に宍道湖について考えてみた場合、決定的な欠陥を持っていた。現実の宍道湖は、淡水と海水が入り混じり合った単なる汽水湖ではない。外部から大量の汚濁物質が流入している。南理論は、このような環境負荷物質の流入を無視したもので、いわば絵に画いたモチ、机上の空論であった。
 私達は、南教授の屁理屈を粉砕するために、多方面の専門家、即ち、水質、土木、魚類、水中植物、鳥類、動物などの自然科学者、公害、環境社会学などの社会科学者からの意見を聴取し、集約した。それだけではない。実際に汽水湖が淡水化された事例について、日本だけでなく、ヨーロッパ、アメリカ、カナダの現実を調査した。その結果、全ての事例において、淡水化によって湖が無惨な姿になっていることを確認した。主に、有毒微生物ミクロキスティスが大量発生し、死の湖と化している現実を知ったのである。

 私達は、宍道湖が死の湖になる蓋然性を、農水省、島根県、松江市に突きつけたが、蛙のツラに何とやら、無視されるだけであった。南教授も同様、自らの理論を修正することはなかった。
 もともと無責任な政治家とか役人達がこのような対応をするのは、いたしかたのないことではあったが、学者、しかも名門大学である京都大学の教授までもが同様であることに驚き、ショックを受けたことを鮮明に想い出す。私が御用学者の存在を知ったのは、この時が初めてであった。この人もはじめから御用学者であった訳ではないはずだ。理想に燃えて名門大学の門を叩き、真理を求めて学者の道に進んだに違いない。
 それが何故、御用学者に堕したのか。何が真摯な学徒を曲学阿世の徒に陥れたのか。
 お金である。国などから交付される研究助成金とか民間からの寄付金だ。お金が学者を縛り上げ、学徒としての良心をマヒさせたのである。お金が魔物であり、麻薬であるとされる所以(ゆえん)である。
 原子力ムラに巣くっている多くの学者も南教授と同様、お金にからめとられた哀れな人達だ。たかがお金、されどお金、お金の魔力には侮りがたいものがある。

 そこで嘉田由紀子氏に立ちかえる。
 このたび嘉田氏は、卒原発を掲げて「日本未来の党」を立ち上げた。氏の原点は琵琶湖である。関西圏千数百万人の水ガメである琵琶湖を守ること、至近距離にある大飯、敦賀原発の危険性を排除して琵琶湖を守ること、これが氏の原点だ。30年前、危機に瀕していた宍道湖を救うことに尽力した嘉田氏が再び声を上げたのである。学者として、行政経験者として、魔物であるお金にからめとられることなく一貫して信ずる道を歩んできた人だ。
 片や、お金の泥沼のような政界にあって、自民党離党以来、一貫して自らの政策を言い続けてきた小沢一郎氏。
 座標軸がブレることのないこの二人が、ガッチリと握手した。明日公示される総選挙の結果いかんにかかわらず、日本の未来には明るい希望の光が見えてきた。

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。

“原発の依存症かな経団連” -さいたま、高木光政

 

(毎日新聞、平成24年12月1日付、仲畑流万能川柳より)

(福島第一原発事故はテロ、全国の原発は時限バクダン。経団連は、電力会社と同様、その仕掛人。同じ穴のムジナ。)

【追記】
 嘉田由紀子氏が松江におみえになった8ヶ月程前、私が地元誌に寄せた記事を再掲する。(「保守王国の悪あがき-3」参照)

ハゲタカの乱舞

 淡水化についての中間報告が公表されてから、再び賛否の声が大きくなってきた。
 多くの科学者によって、淡水化したらアオコというバクテリアが大発生し、宍道湖は死の海になってしまうことが指摘されている一方で、農林水産省とその側に立つ学者は、淡水化すれば塩分躍層がなくなるため水がよくまじるようになり、水底まで酸素が届きやすくなることによって水質はよくなると主張している。
 いずれが正しいのか、現在の科学のレベルでは断定しがたいというのが正直なところらしい。
 学問的にはともかく、過去の実例を見れば、淡水化したところは一つの例外もなくアオコの大発生に見舞われ、水が腐っていることは事実である。
 日本第二位の湖である霞ヶ浦は、眼をおおいたくなるような惨状を呈しているという。アオコのおそろしさは想像以上のものだ。
 私たちのあやまちを宍道湖で繰り返さないで下さい-霞ヶ浦で育った佐賀医師の生々しいレポートは、私達に大きな衝撃を与えた。淡水化された霞ヶ浦が、数年のうちにアオコというバクテリアの異常発生によって、死の海になっていった現実に眼をそむけてはならないだろう。

 かつて「白い巨塔」という映画を見たことがある。田宮二郎演ずるところの、財前五郎という医学部教授をめぐる話である。
 細部については覚えていないが、今でも鮮明に記憶していることがある。
 財前五郎の執刀によって手術が行われ、結果的に患者が死亡した。
 医療過誤が法廷で争われた際の結論は、財前教授の手術は完璧であり、ミスはなかったというものであった。
 しかし、手術を受けた患者が死んだことは厳然たる事実である。
 財前教授は、責任を問われることなく権力の階段を登っていく-。

 宍道湖は、手術台にのせられた患者である。
 財前五郎ならぬ農水省の執刀によって、生きたままの解剖実験が行われようとしている。
 両県知事をはじめ、関係市町村長は生体実験を手伝う助手である。
 地域住民はそれぞれの思いを抱きながら、歴史的な生体実験をかたずを飲んで見まもっている。
 一部の農民は、自分たちの農業用水さえ手に入れば、患者が死んだって構わないと思っている。
 患者を生活の支え、心の支えとしている漁民をはじめ、多くの人々は見通しのはっきりしない生体実験は中止してほしいと切実に願っている。
 今まで一つの例外もなく、成功したことのない手術だからである。
 それでも生体実験は断行された。淡水化試行というごまかしの言葉を用いて、後戻りのきかない実験が強行され、患者である宍道湖は死の湖となった。
 執刀医たる農水省は手術においてミスのなかったことを強調し、宍道湖が死んだのは淡水化という手術のためではなく、流入汚水量の増大にあるとし、アオコの大発生は当時の科学レベルからは予知することが難しかったと強弁するであろう。
 御用学者である京都大学のM教授とか、島根大学のA教授などは執刀医の強弁を理論的に補強するであろう。
 彼らのミスは、理論的に証明されないことをもって無罪放免となった。
 だが、患者である宍道湖は死んでいる。
 平田地区の一部農民は、屍肉に群がるハゲタカのように宍道湖の死体をついばみ、死の舞いを演じている。宍道湖の死体をもとに、ハゲタカ農民が富み栄えるのである。

 宍道湖は一体誰のものであろうか。たんに農民のものでもなければ、漁民のものでもない。さらに、現代に生きる私たちだけのものでもないはずである。二十一世紀以後に生まれてくる、後世の人達のものでもあるはずだ。
 水は人間生活の基盤であり、経済生活の基盤である。今一度私達は原点にたちかえって考えてみる必要があるのではないか。

(山陰経済ウイークリー 昭和59年9月25日号「明窓閑話(182)」より)

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