183 珍書 -5

***その5)

 田中森一弁護士と金貸しの森脇将光。片や、闇社会の手先となって蠢動(しゅんどう)したヤメ検、片や、汚職を生業(なりわい)としている政治屋を相手に暴利をむさぼった高利貸し。共に人生半ばを過ぎた得意の絶頂期に挫折し、それぞれの思いのたけをもっともらしい文章にまとめ、上梓。いずれも甲乙つけ難い曲者(くせもの)の手になるシロモノだ。京都三条河原で釜煎(かまいり)の刑に処せられた天下の大ドロボー石川五右衛門が自伝を残していたとすればかくありなんと思われるものである。

小説家ならぬ一介の会計屋にすぎない私にとって、このような奇怪な人物は反面教師としての興味以上の存在ではない。たとえどのような事情があろうとも、親しく交わることができるような手合いではない。敬して遠ざけるに越したことはない。孔子が鬼神に対してとった態度と同じものだ(「民の義を努め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし」“論語”-雍也(ようや)編)。

 あるいはこうも言えようか。動物園へ行って珍獣を見る。サファリパークで車の中から猛獣を見る。見る側としてはどちらも安全である。身に危険が及ぶことはない。オリがあって、珍獣あるいは猛獣と直接接することがないからだ。身の安全が保証されてさえいれば、珍獣を観察するのは話のネタ位にはなる。猛獣もまたしかり。
 珍獣と書いて直ちに闇社会に棲息(せいそく)する件(くだん)のヤメ検を連想したが、いかに闇社会の怪しげな住人であろうとも直ちに珍獣呼ばわりするのは礼を失することになろう。珍獣と呼んで語弊があれば、何と呼べばよいか。
 獣(けもの)に珍獣があるならば、人間にもそれに相当する輩(やから)がいてもおかしくはない。珍獣ならぬ珍種とでも言うべきか。姿・形は人間であり、喋っているのはまぎれもない日本語であっても、明らかに普通の人種ではない。ハジとか外聞といったものをどこかに置き忘れている。うっかり近付きでもしたらこの手の輩、何をやらかすか分ったものではない。危険極まりない存在である。しかも、オリの中でおとなしくしているようなヤワな類(たぐい)ではない。だとすれば、サファリパークのような一定のエリアにでも放し飼いにして、時折その生態を観察するにしくはない。完全防備のジープに乗っていくのである。さしづめ、保護観察といったところか。
 なにせ、自らの“犯罪”を告白して、恬(てん)として恥じるところがない。しかもその犯罪たるや並のものではない。特別の権限を与えられた国家機関の犯罪だ。検事という究極の暴力装置が生殺与奪の権限を振り回しては、好き勝手に振るまい、平気で害悪をまき散らしているのである。検事を辞めて野に下るや、闇社会にもぐり込み、犯罪の介添え役をしては大金を懐にしている。ヤクザの上前をはねる、スーパー犯罪人とでも言うべきか。歪んではいてもなまじ法律の知識があるだけに、時効にかかっていて訴追されるおそれがないとでも考えたのであろうか、誇らしそうに堂々と数々の“犯罪”を自白しているのである。この人物には、日本人が古来大切にしてきた「ハジ」の観念がスッポリと欠落しているのであろう。
 このような人物が、今なお弁護士資格を持っていること自体不思議である。弁護士には監督官庁がなく、弁護士会の自治にゆだねられているが、弁護士会における自浄能力はどのようになっているのであろうか。このような人物が、かくも怪しげな本を世に問うたことに対して、弁護士会はどのように考えているのか知りたいものだ。

 獰猛(どうもう)な珍獣ならぬ珍種が世に出した一冊の本、このような意味からも「反転」はまぎれもない珍書である。

(この項おわり)  

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