ゲームとしての犯罪 -号外2

 昨年、堀江貴文という人物を知るために、何冊かの著書を読んだり、各メディアに喋っているインタビュー記事などに目を通しました。

 彼の書いた文章は、中学生のレベルを超えるものではありませんし、内容に至っては支離滅裂、論理矛盾などおかまいなしといったシロモノでした。オドロキましたね。

 何よりも気になったのが、人間として備わっているべき最低限のものが、ポッカリと欠落していることでした。親、別れた妻、子供、親しく付き合った女性、友人に対して、人間としての情愛が全く感じられないのです。

守銭奴の代名詞にさえなっているベニスの商人、シャイロックでさえ、こと身内に対しては細やかな情愛を持ち合わせています。このことが、銭ゲバの権化のようなこのユダヤ人の救いともなっており、殺伐としたドラマの雰囲気を随分和らげていますし、この人物に対する一種の共感さえ惹き起こしています。シャイロックにさえあったものが、この人物にはないのです。

 私にとって本を読むことは、大きな楽しみの一つです。仕事以外の本で、いやいやながら読むことはありません。ことのいきがかり上、何冊かやむなく目を通すハメになった、堀江貴文氏の著書は、今もって私の中に極めて後味の悪いものを残しています。荒涼とした砂漠のような心象風景が心の中にしこっているのです。

 人間がすぐれて社会的な存在であることは、コドモが成長するにつれて認識していくものです。自分一人ではまともに生きていくことはできず、多くの人によって生かされていることを肌で覚えて、大人へと脱皮していくのが普通です。
 ところが堀江氏の場合、このような脱皮を経験することなく年齢だけを重ねていったようです。いつの頃からかカネが全てであるという偏った考えにとりつかれ、有名大学に入学しただけで天下を取ったように自分の力を過信し、カネを稼ぐためならば手段を選ばず、まわりの人にしても利用できるときは利用して、カネを稼ぐのに役に立たないとなると直ちに捨て去る、このような拝金主義者にして妄想癖のある自己中心の考えを持っている人は、何も堀江氏に限ったことではないでしょうが、彼の場合は自己顕示欲が旺盛であったためにことさら目立つことになったのでしょう。ジコチューのかたまりで、自分以外の他人を血の通った存在として見ることができないからこそ、回りの人達にどのようなヒドイことを仕向けたとしても、全く心が痛まないでしょうし、罪の意識など生ずることがないのでしょう。
 どこかのオモチャ会社が、堀江氏のアドバイスを受けて、奇妙としか言いようのない「人生ゲーム」なるものを販売しました。人生をオカネだけで考えようとするゲームをコドモ向けにつくるなど、いくら稼ぐためとは言え、いかがなものでしょうか。

<付記>
 先日、NHKの「説教がききたい!」という番組の中で、タレントの熊田曜子さんが禅僧の朝比奈宗泉さんに対して、日頃の疑問とか悩みを打ち明け、老師の話に真剣に耳を傾けていました。可愛い孫の話をニコヤカに聴いているやさしいおじいさん、といった構図はもともと長く続いてきた日本の伝統的なものでしたが、久しく忘れられたような観がありました。老師は、若いタレントの素朴な問いかけに真剣に耳を傾け、押しつけがましい説教などせずに、問いかけられたことについて愚直なまでに分かり易い言葉で語りかけていました。文化を伝承していく上で何よりも大切な、このような素晴らしい対話に接し、ホッとしたような気持になったのは私だけでしょうか。
 この一年ほど、堀江貴文という異形の若者をつぶさに観察してきた私にとって、老師との対話が進むにつれて、番組の演出を超えてキラキラと輝き出した一人の若い女性の姿を見ることができたのは実に幸せなことでした。このような世代を超えた心の対話が地道になされていくならば、日本の未来は明るく豊かなものになるでしょう。
 私は二年半前に初孫をさずかり、今年また二人目をさずかりました。二十年後、共に成人となった孫に対して、朝比奈老師のように素適な顔をもってニコヤカに接することができるでしょうか。私に大きな課題が与えられたようです。

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 ここで一句。

“テレビっていやね 心が透けて見え” -西宮、軒の小雀。

 

(毎日新聞:平成18年4月23日号より)

(目尻に残るカラスの足跡も。カラスがペアで足踏みしていたりして。)

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