冤罪を創る人々vol.80

2005年09月20日 第80号 発行部数:414部

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「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-

日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。
マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。
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山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ
株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント
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●(第八章)展望

「三.前科者としての元公認会計士」より続く
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一.安全弁の構築と点検

一、 マルサと検察官の無謬神話は単なる幻想であった。考えてみれ
ば、当然のことである。神ならぬ身で、完全無欠ということはそも
そもありえない。誤ることがあるからこそ、人間であるともいえよ
う。

二、 マルサも検察官も、共に国民に対する生殺与奪の権限を有する
暴力装置であるだけに、権限の行使に誤りがあってはならない。建
前としては当然のことである。
しかし、これら暴力装置はこの建前にこだわる余り、現実に誤り
が発生しても軌道修正をすることなく、対内的及び対外的にその誤
りを隠蔽し、糊塗することを敢えて行なった。
私の場合、まずマルサのガサ入れがなされた時点で、強制調査の
着手が誤りであったことに、マルサの人達は気づいていたはずであ
る。私が多くの反証を提示していたからだ。少なくとも私を直接尋
問した藤原孝行査察官は十分に分っていた。
国犯法の告発は、強制調査の着手後、半年か長くとも一年以内に
はなされるのが通常である。
それが、私の場合、2年4ヶ月もの間告発されることがなかった。
国税内部で異論があったであろうし、検察との事前折衝においても
告発に関して検察内部で慎重論があったのであろう。

三、 着手から一年10ヶ月が経過した平成7年7月頃から、マルサ
が告発に向けて再び動き出した気配がある。ガサ入れ時に、大木洋
と共に陣頭指揮をした松田憲麿(統括国税査察官)が、防府税務署
長から告発の決裁権限を持っている本局の査察管理課長に転任して
いるからである。
私の意を受けて、国税庁長官に対する抗議書を国税庁査察課長の
石井道遠に面談の上で手交し、その後も後任の国税庁長官に抗議し
つづけた岩本久人参議院議員が、同年6月の国政選挙で落選し、国
会議員の肩書が外れた時期であり、同時に、税務時効が10ヶ月先
に迫っていた時期でもあった。国税庁と広島国税局の内部で、一体
どのような話し合いが行われたのであろうか。知りたいものである。

四、 その後、松江地検は、事前に私から事情聴取をすることなく、
いきなり逮捕するに至った。
公正証書原本不実記載罪という別件での逮捕であったが、中島行
博検事の取調べは、もっぱら本件であるマルサ事案に集中した。
中島検事は取調べのかなり早い段階で、私が嘘を言っていないこ
とを確認し、検察当局が誤った捜査をしていることに気づいていた。
すでに累々記述したところである。
この段階で検察は引き返すことができたはずだ。しかし、いった
ん動き出した組織の歯車は、中断することなく回り続け、数多くの
証拠を捏造してまで立件に踏み切り、私を断罪した。
捜査取調べにあたった12人の検察官のうちの何人かは、冤罪で
あることを十分に知っていた。少なくとも40日間にわたって私を
直接取り調べた中島検事は、私の無実を信じていたと言ってよい。

五、 裁判が始まってからも、検察は、何回か引き返すことができた
はずである。法廷におけるほとんどの証言が、検察官の作成した偽
りのストーリーに反するものだったからだ。

六、 平成11年6月22日、私のもとに一通の書状が届いた。畏友
H.Y氏からであった。私が第一審の結果を受けて発信した文書に
対する返信である。
H.Y氏は、東京大学経済学部出身の、同世代かつ同郷の友人で
ある。同氏の手紙から引用する。

「二〇数億円、三〇〇日、とても信じられないような訴訟事件に巻き
込まれ、どれほどご苦労をされたか、私には想像もつきません。た
だ、私は通産省にいましたが、私は官僚組織を信用していない人間
の一人でしたから、山根さんの言っておられることをかなり想像で
きます。官僚という人間は組織の中に隠れて組織や国家の名におい
て仕事をする(良いこともやらなくてもよいことも)、そして間違っ
てもそれを決して認めない、間違っても決して個人は損も傷つきも
しない、従って、いつでも強行派が組織の主流派になる。これは日
本の明治以来の官僚の本質であり、戦前の軍部官僚、戦後の経済官
僚、最近の大蔵・建設官僚もみな同じです。通産省は比較的良い方
でしたが、技術系の私からみると、どうして、もっと率直に議論し
て問題を解決しないのかと、トップに近くなればなるほど、最近の
政治行政の裏が見えて、それに対する反発が強くなっていました。
大蔵・建設・郵政・農林・厚生・文部などの官僚とは仕事の上で何
度も角をつき合わせましたが、いつも、どうしようもないなと感じ
ていました。検察・国税とはつき合いがありませんでしたが、推し
てしるべしです。」

七、 長年、キャリア官僚として、官僚組織の内部にいたH.Y氏の
言葉は、ずっしりと重く迫るものだ。

(続きはWebサイトにて)
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●山根治blog (※山根治が日々考えること)
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「江戸時代の会計士 -5」より続く
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・ 江戸時代の会計士 -6

恩田木工は、一度は、妻子、家来、親類縁者に対して、離別等を
申し渡したものの、その理由を問い質す妻子たちの理詰めの懇請を
承諾する形で、改めて彼らを受け入れることにしました。
このような一連の木工の行動について、イザヤ・ベンダサンは、

“これも、命令指示は朝令暮改せず、言明した通りにして、必ず実行
するという、人びとの信頼感の獲得のためなら、方法が日本的で非
常に面白いという点を除けば、どの国でも行われたことで、別に珍
しいと言うべきではないであろう。”(「日本人とユダヤ人」角川
文庫版、P.80)

と、軽く流しています。その後の木工の領民たちとの応対ぶりにつ
いては、「日本人とユダヤ人」の中で実に13ページ(P.81か
らP.93まで)も費やして、「日暮硯」の原文をそのまま長々と
引用しているのに対して、妻子たちへの縁切り等のいきさつについ
ては、わずかに半ページほどしか割いていないのです。
「方法が日本的で面白い」とか、あるいは「どこの国でも行われ
たこと」とかの指摘が果して本当にその通りなのか、私には判断す
る知識がありません。
ただ、現代の管理会計、あるいは管理経営学の立場から見てみま
すと、恩田木工の考え方とその行動は、理にかなった極めて合理的
なものであり、決して「日本的」と軽く片付けていいものではあり
ません。

木工はまず第一に、家計を引き締める、つまり緊縮財政を実施す
るに際して、生活をしていくのにギリギリ必要なものは何かを考え
ます。無駄な経費を一つ一つ検討して削っていくのではなく、ひと
まず、全ての経費をゼロにして、改めて最低限必要な経費だけを積
み上げていく手法です。
恩田木工の場合で言いますと、家計の中の食費は一汁一飯に切り
つめ、衣服費は木綿ものに限定しているように、生活していくのに
最低限必要なもののみを生活費としていく考え方です。
これは管理会計で“ゼロベース予算策定法”と呼ばれているもの
と同工異曲のものと考えることができます。この方法は、企業の再
生を図る際の有効な手法の一つとされています。
ゼロベース予算に基づいて冗費のカットの方針が決ったら、次は
いかにして実行していくかが問題となります。
この場合、冗費のカットが上から命令されたものでなく、下、つ
まり、妻子、家来、親類縁者から自発的に提案されたものですので、
その効果は比較にならないほど大きいでしょう。
ゼロベース予算が、上からの一方的な押しつけ(トップ・ダウン)
ではなく、下からの自発的な提案(ボトム・アップ)によって組ま
れているのです。ゼロベース予算を実行するための理想的な姿がこ
こにあると言えましょう。
このように、下からの自発的な提案によってゼロベース予算とで
も呼べるものが組むことができたのは、確かに恩田木工の誠実な人
柄によるところが大きいでしょう。
しかし、単にそれだけではなく、各人の経済事情という客観的な
背景があったことを見逃すことはできません。
恩田木工が、殿様から勘略奉行の大役を仰せ付けられたときに、
先輩の老中とか役人たちから、「財政改革については全て木工の方
針に従う」という念書をもらったことについては既に述べた通りで
す。
この念書を受け取ると同時に、木工は殿様に対して、

“「拙者不忠の儀御座候はば、如何様(いかよう)の御仕置(おしお
き)仰せつけられ成し下され候とも、その節に至り少しも御恨(お
うら)み申すまじく候」と申す誓詞(せいし)を仕り申すべし。”
(「私、忠義にもとること(つまり財政改革に失敗すること)がござ
いましたならば、どのような処分をされようとも、その時に至って
少しも殿様を御恨み申しません。」という誓いをさせていただきた
い。)

と、自らの退路を断っています。つまり、殿様のご期待に沿うこと
ができないならば、切腹する覚悟であるとまで言っているんですね。
背水の陣を敷いたことによって、失敗に終わった場合、最悪、本
人切腹の上、御家断絶の危機に陥ることは、木工本人だけにとどま
るものではありません。妻子をはじめ、家来、親類縁者にも言える
ことです。危機的な状況は、木工一人のことではなく、木工に連な
る一族全ての人たちにもあてはまることなのです。
木工の方針に従わないで、結果的に殿様の命に背く事態に陥った
ならば、恩田一族の存続も危うくなるのですから、妻子たちは路頭
に迷うことになってしまいます。
家来たちは次のように考えました。

“旦那より暇(いとま)受け候はば、何方(いずかた)へ参り候とも、
奉公は相成り申すまじく候。その故は、「彼等は木工殿方にて虚話
言ふことならず、そのうへ飯と汁より外の菜(さい)喰ふこと相成
らず候故に出る者共なれば、何の用にも立ち申すまじき者どもなり」
と申され候て、御抱(おかかえ)下され候御方(おんかた)もこれ
有るまじく候。”
(ご主人様からお暇をいただきますと、どこへ参りましても奉公させ
ていただけないと存じます。理由としては、『あの者たちは、木工
様の家中で“ウソを言わない、その上飯と汁より他のおかずを食べ
ない“ことに耐えかねて暇をだされた者たちであるから、何の用に
も立たない者たちである』と言われて、おかかえ下さる御方もない
ことでしょう。)

つまり、妻子たちも家来たちも、恩田木工から見放されたら、実
際のところ行くあてもなく、生活することができない状況だったの
です。
虚言を慎み、衣食を質素にさえすれば従来通り恩田家の中で生き
ていける訳ですから、ゼロになることを思えば、このような条件を
受け入れる方がはるかに良いという合理的な判断に至ったのでしょ
う。
しかも、主人である木工が殿様から与えられた仕事を成功裡にもっ
ていくことが、恩田家存続の唯一の道であるとすれば、木工のもと
に一族が心を一つにして結束するのは、自然の成り行きだったので
す。

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ここで一句。

“どの辺で足るを知るかが難しい” -摂津、佐古由布子。
(毎日新聞:平成17年8月13日号より)

(私の291日間の拘置所暮しは、地獄変じて極楽でした。自由があ
る現在は、天国。)

 

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