江戸時代の会計士 -6

恩田木工は、一度は、妻子、家来、親類縁者に対して、離別等を申し渡したものの、その理由を問い質す妻子たちの理詰めの懇請を承諾する形で、改めて彼らを受け入れることにしました。

このような一連の木工の行動について、イザヤ・ベンダサンは、

“これも、命令指示は朝令暮改せず、言明した通りにして、必ず実行するという、人びとの信頼感の獲得のためなら、方法が日本的で非常に面白いという点を除けば、どの国でも行われたことで、別に珍しいと言うべきではないであろう。”(「日本人とユダヤ人」角川文庫版、P.80)

と、軽く流しています。その後の木工の領民たちとの応対ぶりについては、「日本人とユダヤ人」の中で実に13ページ(P.81からP.93まで)も費やして、「日暮硯」の原文をそのまま長々と引用しているのに対して、妻子たちへの縁切り等のいきさつについては、わずかに半ページほどしか割いていないのです。
「方法が日本的で面白い」とか、あるいは「どこの国でも行われたこと」とかの指摘が果して本当にその通りなのか、私には判断する知識がありません。
ただ、現代の管理会計、あるいは管理経営学の立場から見てみますと、恩田木工の考え方とその行動は、理にかなった極めて合理的なものであり、決して「日本的」と軽く片付けていいものではありません。

木工はまず第一に、家計を引き締める、つまり緊縮財政を実施するに際して、生活をしていくのにギリギリ必要なものは何かを考えます。無駄な経費を一つ一つ検討して削っていくのではなく、ひとまず、全ての経費をゼロにして、改めて最低限必要な経費だけを積み上げていく手法です。
恩田木工の場合で言いますと、家計の中の食費は一汁一飯に切りつめ、衣服費は木綿ものに限定しているように、生活していくのに最低限必要なもののみを生活費としていく考え方です。
これは管理会計で“ゼロベース予算策定法”と呼ばれているものと同工異曲のものと考えることができます。この方法は、企業の再生を図る際の有効な手法の一つとされています。
ゼロベース予算に基づいて冗費のカットの方針が決ったら、次はいかにして実行していくかが問題となります。
この場合、冗費のカットが上から命令されたものでなく、下、つまり、妻子、家来、親類縁者から自発的に提案されたものですので、その効果は比較にならないほど大きいでしょう。
ゼロベース予算が、上からの一方的な押しつけ(トップ・ダウン)ではなく、下からの自発的な提案(ボトム・アップ)によって組まれているのです。ゼロベース予算を実行するための理想的な姿がここにあると言えましょう。
このように、下からの自発的な提案によってゼロベース予算とでも呼べるものが組むことができたのは、確かに恩田木工の誠実な人柄によるところが大きいでしょう。
しかし、単にそれだけではなく、各人の経済事情という客観的な背景があったことを見逃すことはできません。
恩田木工が、殿様から勘略奉行の大役を仰せ付けられたときに、先輩の老中とか役人たちから、「財政改革については全て木工の方針に従う」という念書をもらったことについては既に述べた通りです。
この念書を受け取ると同時に、木工は殿様に対して、

“「拙者不忠の儀御座候はば、如何様(いかよう)の御仕置(おしおき)仰せつけられ成し下され候とも、その節に至り少しも御恨(おうら)み申すまじく候」と申す誓詞(せいし)を仕り申すべし。”
(「私、忠義にもとること(つまり財政改革に失敗すること)がございましたならば、どのような処分をされようとも、その時に至って少しも殿様を御恨み申しません。」という誓いをさせていただきたい。)

と、自らの退路を断っています。つまり、殿様のご期待に沿うことができないならば、切腹する覚悟であるとまで言っているんですね。
背水の陣を敷いたことによって、失敗に終わった場合、最悪、本人切腹の上、御家断絶の危機に陥ることは、木工本人だけにとどまるものではありません。妻子をはじめ、家来、親類縁者にも言えることです。危機的な状況は、木工一人のことではなく、木工に連なる一族全ての人たちにもあてはまることなのです。
木工の方針に従わないで、結果的に殿様の命に背く事態に陥ったならば、恩田一族の存続も危うくなるのですから、妻子たちは路頭に迷うことになってしまいます。
家来たちは次のように考えました。

“旦那より暇(いとま)受け候はば、何方(いずかた)へ参り候とも、奉公は相成り申すまじく候。その故は、「彼等は木工殿方にて虚話言ふことならず、そのうへ飯と汁より外の菜(さい)喰ふこと相成らず候故に出る者共なれば、何の用にも立ち申すまじき者どもなり」と申され候て、御抱(おかかえ)下され候御方(おんかた)もこれ有るまじく候。”
(ご主人様からお暇をいただきますと、どこへ参りましても奉公させていただけないと存じます。理由としては、『あの者たちは、木工様の家中で“ウソを言わない、その上飯と汁より他のおかずを食べない“ことに耐えかねて暇をだされた者たちであるから、何の用にも立たない者たちである』と言われて、おかかえ下さる御方もないことでしょう。)

つまり、妻子たちも家来たちも、恩田木工から見放されたら、実際のところ行くあてもなく、生活することができない状況だったのです。
虚言を慎み、衣食を質素にさえすれば従来通り恩田家の中で生きていける訳ですから、ゼロになることを思えば、このような条件を受け入れる方がはるかに良いという合理的な判断に至ったのでしょう。
しかも、主人である木工が殿様から与えられた仕事を成功裡にもっていくことが、恩田家存続の唯一の道であるとすれば、木工のもとに一族が心を一つにして結束するのは、自然の成り行きだったのです。

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ここで一句。

“どの辺で足るを知るかが難しい” -摂津、佐古由布子。

 

(毎日新聞:平成17年8月13日号より)

(私の291日間の拘置所暮しは、地獄変じて極楽でした。自由がある現在は、天国。)

 

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