117 「2番」

****(4) 「2番」 ― 称呼番号 ―

一、 平成8年1月26日午後2時20分、私は、松江地方検察庁から手縄腰縄付きで、護送車によって松江刑務所に移送された。

二、 私の身柄は、松江刑務所が発行する身柄領収書と引き替えに、松江刑務所拘置監の管理下に置かれることになった。
私には、山根治という名前の代わりに、「2番」という称呼(しょうこ)番号が与えられた。名前が消えたのである。

三、 身柄領収書といい、「2番」という称呼番号といい、私は一個の人間の形をした物品として、以後、この拘置監で291日の間、過ごすことになった。
私は物品置場だと思っていたが、同時期に勾留されていたオウム真理教の麻原ショーコーは、警視庁の留置場から小菅の拘置所へ移されたとき、地獄から動物園にかわったと言ったというのである。
平成8年5月16日の面接時に、古賀益美氏からこのことを聞いたとき、思わず笑い出してしまった。動物園とは言い得て妙である。

四、 拘置監を規定している法律は、明治41年3月28日制定の監獄法で、さきに述べた国税犯則取締法に負けず劣らずの古めかしいものである。
21世紀の日本において、このような前時代的な法律が存在するのは不思議である。収監されて、身にしみて感じたことだ。

五、 私は、「2番」という名の一個の物品であるから、一切の抵抗は許されず、例えば、独房を替わる際にも、予告なしに突然看守がやってきて、「テンボー!(転房)」と一言いえば、直ちに荷物を取りまとめて移動しなければならないのである。
初めての転房のときである。看守がガチャガチャッと錠をあけ、入口のドアをガラガラッと開けて入ってくるなり、「テンボー!」と大声を張り上げた。私ははじめ何のことか判らず、キョトンとしていると、いきなりカミナリを落とされた。昨日のことのように思い出される。クワバラ、クワバラ。
私の房には、弁護人から差し入れられた裁判関連の資料が、それこそ山をなすほどあり、公判準備の為に狭い部屋の中で、それらの資料と格闘する毎日であった。
看守はそんなことおかまいなしである。「テンボー!」と宣告されたら、資料チェックの途中でも、直ちに中止して応じなければならない。下手に抵抗すると、懲罰が待っているのである。「物品」であっても、こんなところで壊されたらたまらない。

六、 私は、291日の拘束期間中、5回の転房をさせられた。

1. 拘下6 (拘置監一階の6号室)
(平成8年1月26日)
2. 拘下8 (拘置監一階の8号室)
(平成8年2月15日転房)
3. 拘上11 (拘置監二階の11号室)
(平成8年3月28日転房)
4. 拘上4 (拘置監二階の4号室)
5. 拘上19 (拘置監二階の19号室)

七、 五回の“物品”移動には、検察の意を受けた拘置監の戦略的意図があるようだ。
当初の“物品”置場である「拘下6」の部屋は、一階の階段の横にある暗くて風通しの悪い部屋であった。一日中、騒がしく、落ちつける雰囲気は全くなかった。第一回目の起訴の日である平成8年2月15日まで、物品としての私は、この部屋に留置された。広さは5.37平米。
二番目の独房は、同じく一階の8号室であった。階段の横から少しはずれたため、初めの6号室よりは若干明るくなり、騒がしさも少なくなった。しかし、風通しが悪く、ジメジメしているのは変らない。初めの房と比較して、トイレと畳がやゝ汚いのと、タオル掛けがステンレス製で釘止め(初めの房はプラスチック製の貼り付け)であるのが異なっているほか、同じつくりであった。第2回目の起訴の日が平成8年3月7日、その後三週間、この部屋に留置された。
三番目の独房に転房させられたのは、平成8年3月28日。二階の11号室。はじめて、二階に移されたのである。
二階に移されて驚いた。それまでの一階とかなり違うのである。部屋が5.88平米と少し広くなり、明るくなった。風通しは良くなり、ジメジメした感じはなくなった。房内もきれいである。ザワザワした騒がしさはなく、ひっそりとしている。
街中の幹線道路沿いの家から、湖畔の別荘にでも移ったおもむきであった。
これは、私の主観的なものではなく、拘置所でも差別的に取り扱っていたようである。見廻りにきた看守長が、私に一言「どうだ、別荘のようだろう。ここでは一番いい部屋だ。」と漏らしたのが印象的であった。
その後、二回の転房があったが、全て二階における移動で、再び一階に下りることはなかった。

八、 このような差別がなぜなされたのか、憶測するに、検事の取調べが続いている間は、できるだけ環境の悪いところに放り込んでおこうということではないか。
逮捕され、気が滅入っているのに、更に追いうちをかけるように、暗くて陰鬱な独房に閉じ込められれば、ますます憂鬱になる。処遇の面でも精神的に追い込んで、被疑者を投げやりな気分にさせ、嘘の自白を引き出そうとしたのではないか。
検察と一体となっている拘置所の戦略的な意図を感ずるのは、私の考えすぎであろうか。

九、 考えうるもう一つの理由は、一階の看守の眼の届きやすいところに留置し、自殺を未然に防止することである。
たしかに、自殺防止に関しては、そこまでやるかというほど徹底したものであった。
房内には、小刀・ハサミ・カミソリといった金物、帯・ベルトといった「ヒモ状のもの」を持ち込むことは禁止されていたし、夜寝るときも必ず廊下側に頭を向けて、頭をフトンから出して寝ることが要求された。
夜間でも看守の見廻りは15分おき位になされていたし、その都度、監視窓から薄明りのする房内がのぞかれ、チェックされていた。
更に管理棟の廊下には、酸素吸入装置とおぼしきものが配置されていた。未決囚の自殺防止にこれほど神経をつかうのは、預かった“物品”に傷がつけば、拘置所としては、大きな責任問題になるからであろう。とくに、検事取調べ中に、被疑者が自殺でもしようものなら、検事の取調べに対して社会的非難が浴びせられるおそれがあり、そのような不祥事は、なんとしても避けなければならなかったのであろう。

一〇、ちなみに、私と同時に逮捕された組合長の岡島信太郎氏、常務理事の増田博文氏.及び山根会計の小島泰二氏の三名は当初から2階に収監されており、一度も1階に転房させられていない。
私と比較して、明らかな優遇措置であり、検察当局が私を事件の中核的人物とみなし、首謀者と考えていたことを如実に示すものである。

一一、私の称呼番号は、終止「2番」であった。ただ、起訴されて被告人となってから、書類上では「ヒ2番」とされていた。「被告人の2番」という意味であろう。

 

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