073 経歴

****2)経歴

一、 中島行博は、昭和31年4月、岡山県津山市に生まれ、高校時代まで中国山地の津山ですごした。本名、中島行博。別に「イラ検の熊五郎」ともいう。被疑者山根治が親愛の情をこめて奉った名前である。

司法試験の受験に関して定評のあった中央大学法学部に進学し上京、刻苦勉励の末、5回目で司法試験に合格し、司法修習生となる。立派なものである。
その後直ちに検事の道を歩むこととなり、長崎地検を皮切りに、新潟地検、東京地検を歴任し、私と出会った当時は、広島地検の検事として主に経済知能犯を担当していた。
当時の松江地検には、脱税事件のような経済事犯を処理できる検事がいなかったため、急遽広島地検にいた中島行博に白羽の矢が当たり、マルサをてこずらせた一筋縄ではいかない主犯格の私を担当することとなった。
身柄を拘束するために私の自宅にさっそうと現われた中島は、黒ブチの眼鏡をかけ白い検察官バッジを背広の胸に光らせた、上背のあるなかなかの偉丈夫であった。容貌は今一つであったが、もちろん男は顔ではない。
尚、事務所職員の小島氏を逮捕尋問し、後に公判検事をつとめることになった立石英生は、大阪地検堺支部から呼び寄せられている。立石もなぜかまた、中央大学法学部出身であった。
二人共、検察内部ではつとに経済通として知られ高い評価がなされていた。

二、 中島には2人の子供がおり、不倫の経験は今のところなく、同人の妻も同様に不倫経験はないものと推定され、外見的には円満な家庭生活を送っている。前科前歴もない。
中島行博の教育熱心なことは、検察内部ではよく知られており、たとえば、社会勉強のために、小学生の長男を刑務所見物に連れていき、独房とか雑居房の実態を具さに見せたという。検事による刑務所視察ともなれば、刑務所側としては大変な気づかいであったろう。所長以下幹部が整列して出向かえ、所内の巡視は、所長あたりが先導役となっていわば大名行列の観を呈するものであったに違いない。田宮二郎演ずる、「白い巨塔」の財前五郎医学部教授の総回診と同列のものであったろう。
中島行博は、自分よりはるかに年上の人達が腰を折り、もみ手をして接遇してくれる生の姿を、息子にしっかりと見せつけることによって、いやが上にも父親の尊厳が高まる快感を覚えたことであろうし、収監され人間扱いされていない、社会の底辺で呻吟している多くの囚人たちを、目の当りに見せることによって、日本社会の現実の一端を息子に体感させようとしたのであろう。
最愛の息子のために通常ではとうていできないことを、検事の職権で敢行し、もって親を敬い日本社会に貢献する人材を育てようとするなど、余人の思いつくところではない。まさに、子弟教育の手本であり、親の鑑と称すべきである。小さい頃から、親の職場を見学させ、徳育を施しかつ社会性を身につけさせる、誠に立派と言う他はない。

三、 検察官中島行博はまた部下思いでも知られている。
忠実な女房役である渡壁書記官を実の弟のように可愛がっていたのは、端から見ていて誠にうるわしい限りであった、
私の尋問が半ばにさしかかった頃、中島行博が背を丸めるようにして顔を私に近づけ、猫なで声で私に話しかけてきたことがあった、 ―

中島:「山根サン、松江で日本海のうまい魚を食わせるところ教えてよ。」
山根:「・・・。」
中島:「いや、このところうまいもの食ってないんでね。松江刑務所で食事の用意をしてくれるんだが、今一つでね。」
山根:「・・・。」
― オレは、三食ムショのメシだ。

中島:「それにね、この渡壁君もよく頑張ってくれているんで、ねぎらってあげようと思ったんだ、渡壁君とうまい魚を食ってキューッと一杯やりたいんだよ。」
山根:「・・・。」
― オレは、酒など飲めやしない。

中島:「ま、そういうことで、魚のうまい店教えてよ。」
山根:「・・・。」

中島は天性の楽天家というべきであろうか、あるいは、このように強靭な神経の持主でないと検事がつとまらないというべきであろうか、私はある種の感動さえ覚えて、二つの店を教えることにした。
一つは寿司屋であり、今一つは小料理屋であった。共に魚料理には地元で定評があり、包丁一本、日本全国どこでも通用するきっぷのいい板前がとりしきっていた。
私は中島が差し出した検察庁の用箋に、店の名と略図を書いて中島に渡した。中島は折りたたんで、嬉しそうにポケットにしまいこんだ。
何日かの後、中島は取調べ中急に思い出したように、小料理屋のほうに二人で行き魚料理を堪能した旨私に報告し、謝意を表した。なかなか律儀な人物である。

四、 その時の飲食代は、あるいは松江地検の調査活動費(調活費)名目の裏金で賄われたものと推認されるが、あるいは中島が身銭を切ったのかもしれない。
ちなみに調活費名目の裏金の存在は、元大阪高検公安部長であった三井環氏が内部告発に踏み切った( “告発!検察「裏ガネ作り」” ― 光文社刊)ところのもので、検察庁内部では公然の秘密であった。
尚、私の捜査に関連した中島行博を含む検事達が、松江市内の某料亭で捜査会議と称して宴席をひらき、「あの目ざわりな中村弁護士をなんとかしょっぴくことはできないか」などと言い合って盛り上がっていたことが私の耳に届いている。この時の支払いもあるいは調活費名目の裏金によってなされた可能性が高い。
私はいわゆる情報公開法にもとづいて開示請求をし、松江地検の平成7年度と8年度の小切手振出済通知書、支出回議書、支出依頼書、請求書(飲食を伴う打ち合せに関するもののみ)の全てを取り寄せて精査したが、その結果、当該料亭への支払いも小料理屋への支払いも共になかったからである。

五、 裏金であったのかあるいは身銭であったのか定かではないものの、中島行博が部下の渡壁書記官の労をねぎらうための行動を実行したことは称賛に値することであって、中島の温かい人間性を窺い知ることができる。

 

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