044 逮捕当日 ― 別件逮捕 ―


****2) 逮捕当日 ― 別件逮捕 ―

一、 平成8年1月26日、朝6時50分、自宅のチャイムが鳴った。私は寝ているところを起された。

 中島行博検事が、逮捕状を携えてやってきた。副検事と事務官を従えている。

 窓の外には、7人位の連中が、家宅捜索のために待機していた。


二、 三人が応接間に入ってきた。中島検事は、私に逮捕状を呈示して、次のように言った、 ―

「近所の手前もあるだろうから、逮捕は自宅ではなく、地検で行なうので、出かける用意をするように。」



三、 私は中島検事から逮捕状を受けとり、目を通してみた。

 「罪条、公正証書原本不実記載・同行使」となっている。

 私は、一瞬、何のことか分からなかった。手が震え、顔から血の気が引いた。



四、 午前7時、私は検事の許可を得て、中村寿夫弁護士に電話を入れた。

 検事が逮捕状をもって自宅にきたことを告げ、逮捕容疑が私の理解を超えるものであることを説明した上で、弁護人になってもらうことを要請した。

 中村弁護士は電話口で、エーッと絶句し、別件逮捕だと言いながら、弁護人を引き受けてくれた。



五、 私はカメラをとり出して写真を撮ろうとしたところ、中島検事が「撮るな。肖像権がある。」と大声を出して止めに入った。私は妻を呼び入れて、「4人の記念写真をとりたい」と申し入れたが、どうしても許可してくれなかった。

 それではと、応接間にあったテープレコーダーを回したところ、中島検事は「あとで押収するように」と副検事に指示していた。



六、 習慣になっている朝風呂がまだであったので、検事の了解を得て、風呂に入ってヒゲを剃った。カメラ写りをよくしておかなければ。

 風呂を出て、朝メシを食う。証拠隠滅を疑われても癪であるし、食事を妻に応接間まで運ばせて、検事達の目の前で食べた。

 逮捕されたら当分自宅のみそ汁が飲めなくなると思い、みそ汁のおかわりをする。味がなかった。



七、 検事のアドバイスによって、当面の着替え、日用品をバッグにつめる。本は中西進の文庫本万葉集5冊、お金は5万円、皮のオーバーコートも加えた。



八、 午前8時、副検事は自宅に残り、私は、中島検事と渡壁事務官と共に、検察のワゴン車で、松江地方検察庁に向った。



九、 松江地検に連行された私は、しばらく控室で待たされた。その間、地検の職員であろうか、何人かが私を品さだめしては出ていった。

 物見見物といったところであろう。



一〇、私は控室から地検3階の検事室に移された。

 中島検事の他に、事務官が2人いた。一人は書記の渡壁事務官であり、一人は立会人であった。

 中島検事が逮捕状を私の面前で読み上げた。中島は、読み上げる際に、逮捕状の副本を私に手渡し、私がじっくり眼を通すことができるようにしてくれた。



一一、中村弁護士が言うように、明らかな別件逮捕であった。逮捕容疑は3件記されていたが、私には、それらが何故犯罪であるのか全く理解できなかった。とくに、その中の一件については、私の記憶に全くないものであった。



一二、午前8時40分、逮捕状が執行され、私は、松江地検3階の検事室で逮捕された。

 逮捕後、第一回目の供述調書が作成された。私は、3つの逮捕容疑について次のように供述し、サインをして、指印を押捺した。

「3つの内2つのものは、それぞれ真実の登記であり、不正な登記ではない。残りの一つは、私の記憶に全くないものであり、検察のいいがかりではないか。」



一三、手錠・腰縄をつけられた私は、地検5階の部屋に連行され、正面及び左右の横向きの写真を撮影された。明るい部屋であった。左右の手の指全て、指紋が採取された。黒のスタンプ台に10本の指を一つずつ押捺しては、指紋台帳に写していった。



一四、再び検事室に連行され、手錠・腰縄がはずされた。渡壁事務官が昼食を出してくれた。仕出し弁当であった。

 食後のコーヒーを要求したところ、渡壁事務官は、中島検事に伺いに行ったようであった。検事の了解が得られたため、庁内の食堂からとりよせてくれた。250円。1万円を出しておつりをもらう。



一五、午後2時すぎ、私は再度手錠・腰縄をされ、ワゴン車で松江地検から松江刑務所へ護送された。



一六、午後2時20分、松江刑務所に着いた。一枚の身柄領収書と引きかえに、私の身柄は松江刑務所拘置監の管理下に置かれることとなった。



一七、私は、「新入調室」という札の下がっている部屋に連行された。

 外部と同様の寒い部屋であった。申し訳程度の電熱器が部屋の上部に一つだけついていた。



一八、二人の刑務官がおり、私は検査のために丸裸にさせられた。股を拡げて、後向きになり、ケツの穴までのぞき込まれた。

 所持品が全てチェックされた。

 毛糸の厚手の靴下、柄付タオル、カミソリ等の洗面用具、M医院処方の薬袋、 ― これらは持込できないとして取り上げられ、領置された。

 私は、処方薬だけは房内に持ち込みたいと思って、気管支ぜんそくの持病があり、現在治療中である旨を、刑務官に申し出たところ、信じられないような言葉を耳にすることになった、 ―

「たんなる風邪なんだろ。病人を逮捕してまで引っぱってこないだろうからな。」



一九、私に「2番」という称呼(しょうこ)番号が与えられ、独房に移された。 

 用意された独房は、「下6号室」という札がかかった拘置監1階の6号室であった。

 2畳敷の畳の部屋で、流し台、水洗便所が付いていた。備品として、小さな座り机、トイレ隠しの衝立、プラスチックの籠があり、寝具としては、敷布団1枚、かけ布団2枚、毛布2枚、枕1つ、襟布、枕カバーが1つずつ、所内心得を記した冊子が2冊、備え付けてあった。枕はソバガラ入りの特殊なもので、タテ、ヨコ11.5㎝、長さ29㎝のカチカチの枕であった。

 その他に、歯ブラシ、歯みがき粉、チリ紙、箸、プラスチックのコップ、一㍑入のアルミのやかん、タオル、ホーキ、ハタキ、チリトリ、えもんかけ、トイレ洗い、フキン、ゾウキン、ゴミ入れ、石けん、荒石けん、ナイロンたわし、プラスチックの洗面器2つが備えてあった。

 この中で、ホーキ、ハタキ、チリトリは、久しく眼にしたことはなかったし、歯磨き粉とか荒石けんに至っては、50年程前に使ったことを思い出す位で、まさに前時代の遺物であった。

 

二〇、眼鏡は、近視用だけが持込みを許された。後に、老眼鏡も入れてもらうことができた。

 その場合には面倒な手続きが必要で、タテ8.9㎝ヨコ7.7㎝の願箋(がんせん)と言う書類に必要事項を具体的に記入し、担当看守に願い出なければならなかった。老眼鏡は、検事の取調べに必要であるという理由で許可された。

 この後私は、この拘置監に291日も勾留されることになるが、その間に私が書いた願箋の数はゆうに1500通は下らないものであった。ことごとくが書類の世界だったのである。



二一、しばらく部屋にいたところ、看守が私を連れ出して医務室へ。白衣を着た若い医者らしき人物がいた。いかにも新米といった感じの眼鏡の男であった。

 上半身裸になって診察を受ける。身長、体重、血圧が測定された。風邪で通院していることを告げる。紙による尿検査で少し糖が出ていることが判明。3つの薬が3日分処方された。M医院の処方を参考にしたようだ。

 この3日分の薬は私に直接手渡されることはなかった。食後の服用が指示されているらしく、その後3日間、毎食後看守が3つの薬を持ってきて、廊下側の検視窓を引き上げて房内に差し入れ、服用するように命令した。薬を飲み込んだことを看守に確認してもらうために、看守の前で大きく口を開けて、思い切り舌を出すことが要求された。

 私は風邪にめっきり弱く、いつもはグズグズと一ト月近くも完治しないのであるが、このときばかりは、2日程で治ってしまった。私の動物としての生存本能が目覚めたのかもしれない。



二二、中村寿夫弁護人が面会に来てくれた。午後4時すぎであったろうか、時計の持ち込みが許されていないので、はっきりした時刻は分からない。

 このとき、組合長の岡島氏と職員の小島氏とが逮捕されたことを知る。マスコミが私の事務所に押しかけているという。

 母、妻、古賀氏の3人に伝言を依頼する。



二三、夕方4時半ごろ、夕食。検視窓から夕食が差し入れられた。拘置所での初めての食事である。



二四、夕方6時、就床(仮就寝)。やっと横になることが許された。 

 夜9時、就寝。ともかく寒い。皮のオーバーコートを持ってきてよかった。足が冷えてなかなか眠れない。

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