096 原体験への回帰

***3.原体験への回帰

一、 私が逮捕勾留された1月26日は、寒い日であった。その後連日、夜中は零度を切る厳寒の日々であった。

二、 拘置監の独房には、全く暖房の設備がなかった。その上、一日に7回以上は、食事の差し入れ、連れ出し、あるいは室内検査のために、窓と扉が開けられ、その都度寒風が容赦なく独房に入ってきた。独房内の流し台が凍ったことも一度や二度のことではない。流し台は、床から41cmのところに設置されており、幅60cm、奥行52cm、深さ15.5cmのステンレス一体型抜きタイプのものであった。

三、 夏の日々は、独房が蒸風呂になった。当然ながら冷房設備はなく、扇風機もない。ただ、真夏の一ト月間だけ、小さなウチワが貸与されるだけであった。
ウチワの使用も厳しく制限されており、たとえば食事中の使用は禁じられていた。そのため熱い汁物を食べるときなど、全身から汗が吹き出し、着ている下着が汗でズブ濡れになった。
そのような状態であっても下着を脱いで裸になることは許されなかった。更に流れる汗を乾いたタオルで拭くことは許されていたものの、水で濡らして拭くことは禁じられていた。
真夏の一時期だけ、しかも戸外での運動の後と、夕方仮就寝の前に一度だけ、タオルで水拭きすることが許されていた。時間は1分間、水の使用量は洗面器二杯分に制限されていた。
「拭身(しきしん)、ハジメー!」の号令一下、懸命になって身体を水拭きした。1分などあっという間に過ぎていった。
「拭身、オワリー!」の号令がかかると直ちに中止しなければならなかった。

四、 独房には、テレビもなければラジオもない。電話はもちろん、時計さえなかった。
房内の明かりは、2.5m位の高さの天井に、18Wの蛍光灯(日立、サンライン、白色)が一つあるだけで、暗くなってから21時の就寝までの時間は、何とか字が判読できる位の明るさであった。
天井は一面にムキ出しのグレーの石綿でおおわれており、コンクリートの壁にはアイボリー色の塗料が塗られていた。独房は、いわば色彩のない空間であった。
学生時代から欠かすことなく飲んでいた酒、ビール、コーヒー、紅茶、緑茶、抹茶など、一切口にすることができなかった。ただ、番茶だけが、一日3回の食事の時毎に、一リットル入りのやかんに入れて700cc位ずつ供給された。
そして、私にとって何より大切なものであった女性とのスキンシップができなかった。

五、 私はこのような状況の中で、逮捕された1月26日から、次の冬の11月12日までの291日間、独房生活を強いられた。
その為であったろうか、私の中に幼い頃体験した、いわば原体験とでもいえるものが蘇ってきたのである。

六、 私が過した幼年時代は、昭和20年代であり、戦争の爪痕がいたるところに残っており、日本全体が貧しかった。
道路はほとんどが舗装されていない砂利道であり、自動車も数える位しか走っていなかった。自家用車など夢のまた夢であった。

七、 中でも私の育った家は、とりわけ貧しかった。大工であった私の父が、終戦の年、昭和20年にフィリピンで戦死し、その後私の母は、女手一つで幼い私と5つ年上の兄とを育ててくれた。
大正5年生まれの母は、30才にして戦争未亡人となった。街中の15坪の狭い土地に建っていた家は、昭和24年、私が白潟小学校1年生のとき白潟大火によって全焼した。またたく間に焼け落ちたため、ほとんど何も持ち出すことができず、私達は無一物の状態となった。父方の親戚の支援を得て、急ごしらえの平屋が再建され、私達親子3人と祖父母の5人家族は、6畳一間で肩をよせあうようにして暮らした。
母は、道路に面した家の一部を利用して小さな店を営み、糊口をしのいだ。駄菓子、雑貨、煙草を細々と商った。貸本屋をやったり、焼芋を作って売ったりもした。その合い間に、母はわずかの手間賃で、白手袋作りの内職をしていた。私は、母が夜遅くまで懸命に縫っていた手袋の白さを今でも忘れることができない。あの白手袋は、婚礼などに使う儀式用のものであったろうか。

八、 私が小学校へ入学する前のことであった。母は私を連れて、祖父母と一緒に、祖母の生家の畑を借りて作っていたさつま芋を掘りに、玉湯町の林に行ったことがあった。片道15キロの砂利道を大八車で行き、たくさんのさつま芋を積んで帰った。
幼い私は大八車にのせられていたが、帰りに火葬場のあった「あんべ山」付近で日が暮れかかり、あんべ山の峠道を心細い気持ちで通り過ぎたことを想い出す。

九、 兄と私は、母の指示によって、駄菓子とか雑貨の仕入を手伝った。母は、手持資金がなかったので、店で売れる都度、小口に仕入れており、そのたびに、私達は、それぞれの卸問屋に走った。
当時私が頻繁に通ったI商店、M本店、F本店、あるいはT菓子店は、往時の場所には存在しない。どうなったのであろうか。

一〇、T菓子店については、今でも鮮明に覚えていることがある。私が白潟小学校4、5年の頃である。
T菓子店は私の家のすぐ近くにあり、当時の松江市では最も賑わっていた表通りの街にあった。
この菓子問屋には、家つき娘が2人おり、上の娘は二十才の半ば位であったろうか。
我々遊び仲間の間では、オトコ女なるあだ名がつけられ、恐れられていた。
終戦間もない日本の片田舎とはいえ、松江は県庁所在地であり、その一番の繁華街である。この若い女性は、腕をまくりあげて、普通の日でも長靴をはいて街中を闊歩していた。我々ガキ共をビビらせるには十分な迫力を持っていたのである。

一一、ある日私は、母の言いつけで、T菓子店に菓子の仕入れに赴いた。
店に入ったとたんに、バアーンという大きな音が鳴り響いた。件の女性が、菓子入れのブリキの空缶を、思いきり足で蹴っとばしていたのである。
同時に、野太い大きな声が私の頭の上の方から降ってきたので、一瞬身をすくめ身がまえたが、それは私に向けられたものではなく、従業員を叱りつけているものであった。
私は、その時確かに、まくり上げられた女性の両腕に、うぶ毛以上の腕毛が密生しているのを目にしたのである。

一二、母は一家の大黒柱として休む暇なく働き、私達2人の兄弟と祖父母がその手助けをして、私達5人は、生き延びてきた。
家には金銭的なゆとりがほとんどなかった。そのため、私は、小学校、中学校、高等学校、それぞれの卒業記念アルバムを持っていない。アルバムは購入資金を積み立てて取得するものであり、私にはその積立金の用意ができなかったからである。
また、私は、修学旅行なるものを一度も経験していない。家計の状態をよく知っていたために、母に無心することができなかったのである。

一三、しかし、私には、毎日が楽しかった。金銭的にゆとりがなかったとはいえ、ひもじい思いをしたことは一度もなかったし、寒さに凍えることもなかった。母は私に幼稚園、小学校、中学校、高等学校、更に大学にまで行かせてくれた。

一四、私の原体験といえるものは、小学生時代、私の10才前後のものである。
とくに、小学校3年生のときから、6年生に至るまでの四年間に原体験が凝縮している。教育に情熱を燃やしている若い教師がクラスの担任となったのが、この四年間であった。
柿丸賢吉という私にとって終生忘れることのできない教育者は、当時20才後半であった。先生は、クラス全員から慕われ、小学校卒業と同時に、先生の名を冠した「柿丸会」が自然に結成された。毎年のように年何回か、先生を招いた会合が催され、先生が平成9年10月12日、74才でお亡くなりになるまで、絶えることなく続けられた。私達は、平成6年11月、先生の古稀を祝って『「白潟の想い出」 ― 柿丸賢吉先生古稀記念文集 ― 』なる記念文集を作成し、記念品と共に先生に贈った。

一五、思えば、私の勉学の基礎は、この4年の間に柿丸賢吉という天性の指導者によって植えつけられたようである。
この4年間は、私にとって毎日が新しい発見の日々であった。
新しい発見は、常に驚きが伴っていた。先生の記念文集に寄稿した「驚きの日々」と題する一文から引用する、 ―

「私の小学生時代は数々の遊びと、それに伴って発生する驚きとでギッシリつまっている。
早朝のエビ取り、御手船場でのナガテ(手長えび)つり、宍道湖・大橋川でのゴズ(はぜ)つり、堀川でのフナつり、宗泉寺の庭で夢中になって遊んだペッタン(メンコ遊び)、ラムネ(ビー玉遊び)。
休みになると意東の田舎に行くのが何よりの楽しみで、谷川の沢ガニや草むらのチョンギース(キリギリス)をつかまえたり、川にサンショの実をたたき出して魚を酔わせ、大きなフナやコイなどを手づかみにして捕ったりした。熟柿、いちじく、ビワ、アケビ、栗、シイの実など、田舎はおやつの宝庫であった。虫をつかまえて食べるモウセンゴケを発見したのも意東である。
遊びに夢中になり、数々の小さな発見に胸おどらせていた頃に出会ったのが柿丸先生であった。今にして思えば、先生からは単なる知識だけではなく、知識に至るプロセスを教わった。驚き、疑問に思ったことについて、自分の頭で考え、自分の言葉で表現することの大切さを教わった。
先生は、算数、国語の基礎学力をしっかりつけるようにして下さった一方で、私を自由に遊ばせ、遊びの中から自然に学ぶようにして下さった。ガキのかたまりのようであった私を、たたき、しかりながらも常に温かい眼差しを向けて導いて下さった。感謝の気持ちでいっぱいである。」

一六、少年時代、冬は炭火はあったものの、しっかり寒く、手はあかぎれし、霜やけになった。夏は、うちわはあったものの、暑さがストレートに身体を襲った。
いわば季節の移り変りを身体全体で、体験することができたのである。夕方から夜に移行する刻一刻を肌で感ずることができ、夜が次第に明けていくワクワクする瞬間を味わった。

一七、一般社会と隔絶された独房生活は、私の少年時代と同様に衣食住は足りていたものの、一切の贅沢が排除されたものであった。冬も夏も自然の状態に置かれたのも、少年時代と同様であった。
このような極限状態にあった私は、いわば、時空を超えて、少年時代へ回帰したのである。魂だけでなく、肉体までも原体験の世界に没入した。今にして思えば、一種の現実からの逃避であり、自己防衛本能の発露であったろう。

 

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