A14 ハニックス工業 事件の真相 14

***(9)遺族との接触

平成13年6月25日、検察側の上告断念によって、私にかかるマルサの捏造事件は一応の結末を終えた。

私はかねてから心に懸かっていたハニックス工業に関する疑念を払拭するために、同社が公開していた有価証券報告書の全てを取り寄せ、徹底した分析を行ってみた。

更に、同社に関する各種資料を改めて可能な限り集めて、財務諸表分析に加えた。

その結果、私は、上述のような結論に達したので、一文を草し、ある雑誌に掲載しようと考えた。

草稿が完成したものの、公表する前に、会社関係者、とりわけ、故H氏の実弟で副社長であったB氏に直接会って、いくつか確認したいことがあった。
しかし、会社関係者を捜し出すことは、なかなかできなかった。
幸い、いくつかのルートから、やっとのことで、故H氏の女婿W.K氏が、兵庫県にいることを突きとめることができた。

平成13年8月9日、W.K氏を兵庫県の勤務先にたずね、面談した上で、出来上っていた草稿を三部、手渡した。
一部をW.K氏に、一部をW.K氏の妻で、故H社長の長女に渡し、残りの一部をW.K氏の義理の叔父である元副社長のB氏に渡していただくように話し、B氏との面談を希望している旨の伝言を頼んだ。

平成13年8月20日2時34分、B氏から、私の事務所に電話が入った。
B氏は、九州出張の途次に、松江に立ち寄り、私と面談することになった。

平成13年8月22日、夜8時すぎに、私は松江のアーバンホテルでB氏と会い、食事を共にし、一献を傾けた。

B氏は、私に次のように話しかけ、苦しい胸の内を打ち明けた、 ―

「私達は、はじめ何が起ったのか、よく分かりませんでした。
脱税で告発されたことが、マスコミに公表されたら、直ちに会社の預金150億円が銀行に押さえられて引き出せなくなり、その結果、月末の手形が落とせなくなってしまい、あっという間に倒産したのです。
それから半年後、会社再建の道が絶たれ、破産に移るや、今度は、頼みにしていた大黒柱である兄の社長が、自殺してしまったんです。」

 

「国税当局が何故脱税で告発したのか、何故突然会社が倒産したのか、何故兄貴が死ななければならなかったのか、私の心の中で十分整理ができないままで、この8年間、夢中で生きてきました。
多くの債権者からは責められ、従業員からは、冷たい視線を浴び、身を隠すようにして、なんとか食いつないできたのです。」

「このたび、W.Kから渡された山根さんの原稿を読んで、なるほどこういうことであったのかと、はじめて納得することができました。
当時私達は、国税当局がデッチあげをするなんて、考えてもいませんでした。ただ、私達には納得できないが、法に照らせば脱税になるのかな、位の認識だったのです。
当時は、国税にだましうちにされたとは思っていましたが、更にその裏に、山根さんが指摘されるような事情がひそんでいようとは、夢にも思いつきませんでした。
国税もずいぶんひどいことをするものですね。」

「しかし、会社が倒産し、兄も死に、私の資産もなくなり丸裸になってから8年も経ってみると、正直言って、当時のことは全て忘れてしまいたいのです。
私達、ことに死んだ兄貴の名誉を回復しようとしてくださる山根さんには感謝の気持ちで一杯です。
しかし、本音を申し上げれば、ハニックス工業の件については、しばらくそっとしておいて欲しいのです。」

「どうしても記事を公表するというのであれば、できればあと二年程待っていただけないでしょうか。
食いぶちとして、私が細々と始めた小さな会社がようやくメドがついたところで、あと二年もすれば、私の気持ちも今よりはゆとりがでてくるでしょう。」

私は、B氏の言葉を聴いて当惑した。私の記事は、一族の名誉を挽回するきっかけになるはずのものであり、記事の公表には諸手をあげて賛同してくれるものと思っていたからだ。しかも、私がベースとした情報は、全て公表されているものばかりであり、守秘義務に抵触するものは一つもなかった。

私には、三年前に公表したい理由が二つあった。
一つは、私が、三年前の7月で、59才を一期として自ら命を絶ったH氏と同じ59才になっており、因縁めいたものを感じていたからだ。
二つは、そしてこれが最も大きな理由であったのであるが、3年前の7月に、私にとって忘れようにも忘れることのできない大木洋が、広島国税局調査査察部長に昇進したことであった。
事実を捏造して、私を奈落の底につき落とした人物が平然として、マルサのトップに昇りつめた。大木洋は、私より一つ年下の、ノンキャリアであることから、部長職は国税局最後のポストであり、一年後には退官することが予想された。大木の部長在任中に、私の総括の序章として公表し、部長昇格に負のエールを送りたかったのである。

私はB氏に、以上のような話をし、記事の公表について再度了解を求めたが、同氏は、先のばしを私に懇請するばかりであった。

思うに、同氏にふりかかってきた出来事は、文字通り訳もなく襲ってきた悲劇であり、悪夢としか言いようのないものであったろう。
8年が経過していた3年前でさえ、何かの影におびえ、息をひそめて生きている感のあったB氏にとって、たとえどのような記事であれ、再び、社会的な話題にされたくなかったのであろう。

私は、記事を公表する意欲がそがれ、そのままになって現在に至った。
B氏が要望していた2年の期間が過ぎた。また、私の10年間を客観的に総括しようとするとき、ハニックス工業事件の概要と、事件の真相に言及することは不可欠のことであった。
10年前、防戦一方であった私のマルサへの姿勢を、攻撃へと変化せしめた重要な出来事だったからである。

私が分析に用いた資料は全て公表されているものではあるが、B氏の気持ちを忖度し、仮名とした。

 

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