ある相場師の想い出 中江滋樹

 

中江滋樹(なかえしげき)氏と出会ったのは昭和51年、今から30年ほど前のことでした。私は郷里の松江市で会計事務所を開設するために、準備をしていました。当時私は34歳、中江氏は私より一回り若い22歳でした。

 中江氏は、京都で投資コンサルタント会社(株式会社ツー・バイ・ツー)を設立した直後であり、私はその会計顧問を引き受けることになりました。山根会計の第一号顧問先が中江氏の会社だったのです。このことから中江氏は、私には忘れることのできない存在となっており、氏との出会いがなければ経験することのできなかった数多くの体験をしたことからも、終生忘れることのできない存在でした。ちなみに株式会社ツー・バイ・ツーという名前は、中江氏の22歳のときに起した会社(2×2)という意味と顧客の資産を2倍に増やす(2×2)ことを目指す意味をこめてつけられたものです。



 私が中江氏のことを過去形で語らざるを得ないのは、氏がこの世に存在している可能性がほとんどないからです。私が291日間の勾留生活を終えて、シャバに出てきたときに会ったのが最後でした。7年前、つまり平成9年の1月以降、プッツリと音信が途絶え、私だけでなく、中江氏と親しかった人達の前からも完全に姿を消してしまいました。

 経済紙等が伝えるところによれば、彼はある上場会社の手形事件に巻き込まれ、闇世界のタブーに触れたようです。消されたのでしょう。



 中江氏は、株式市場に乗り出してからほどなく、”北浜(大阪における株式相場の中心地)の若獅子”(朝日新聞の特集記事の見出し)と持て囃されるようになり、若き相場師としての地歩を固めていきました。

 二年余り後に、中江氏は活動拠点を京都から東京へと移し、同時にある経済雑誌-投資ジャーナル-を買収し、それまでのレポート屋的な存在からの脱皮を図りました。

 私は中江氏の会計顧問をするかたわら、氏の依頼を受けて、推奨株の紹介と会社分析記事を書いていました。当時、全上場会社の有価証券報告書(ダイジェスト版)が差し換え形式で日本経済新聞社から発行されていましたので、これらの分析結果をベースに記事を作成したことを懐かしく想い出します。

 締め切りギリギリになることが多く、メールはもちろんファックスさえありませんでしたので、私の原稿を電話口から口頭で送ったものでした。松江で書き上げ送信した原稿は、ゆうに100本を超えるでしょう。

 8年後の昭和59年に、中江氏とグループ各社(14社位あったでしょうか)は、証券取引法違反による警視庁の摘発を受け、瞬時にして崩壊してしまいました。

 私と中江氏との主たる関係は、中江氏の刑事裁判の第一審までで終了しましたので、中江氏の想い出は昭和51年から昭和61年頃までの10年間に限定されます。

 つまり私が34歳から44歳まで、中江氏が22歳から32歳までの10年間です。



 中江氏が消息を絶ってから7年、30年にわたる私の会計士人生に少なからぬ影響を与えた同氏を追憶し、思いつくままに振り返ってみようと思います。いわば、一人の風雲児に対する鎮魂歌です。

 『冤罪を創る人々』の中に「@吉川春樹@」という自称超能力者が出てきます。この人物を私に紹介したのが中江氏でした。私は、この人物にまんまと騙されひどい目に会った訳ですが、中江氏もまたこの人物に騙された一人でした。



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 このところ、毎日新聞の読者投稿による川柳欄(仲畑流万能川柳)を楽しんでいます。今後、私の記事にピタッと合うようなもので、気に入った句があれば、一句ずつ紹介していきます。まず。初回。
“持ち上げてたたいて忘れる週刊誌” -福岡、ちわわ。
(毎日新聞:平成16年8月12日号より)



(週刊誌だけでなく、朝日のような一流新聞、テレビなど他のマスコミも同じようです。落差が大きい程、注目度が高くなり、お金になるのでしょうね。社会の木鐸(ぼくたく)という言葉が死語になってしまったのでしょうか。)  

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