司馬遼太郎と空海 -その8

 作家は、空海の人生の折々にかいま見られる言動をもとに、空海が世間的才覚にたけていたとし、「ずるい」人物であったとしばしば述べています。また、決して淡白な男ではなく、むしろ、並外れて執念深い性格であったとし、「もし空海が大山師とすれば、日本史上類のない大山師である」とさえ極言しています。とりわけ、「最澄に対する底意地の悪さ」について語るとき、作家のペンは一段と冴えていくようです。

 

 作家は、空海の出自に疑問を投げかけ、その死について入定説を否定し、生涯不犯ではなかったとし、世渡りが巧みで執念深い底意地の悪い人物であったと述べている訳ですが、作家の意図するところは空海を誹謗したり中傷して、おとしめることではありませんでした。

 作家の興味は、仏教の一派を立ち上げ、現在に至るも即身成仏として多くの人の信仰の対象になっている弘法大師空海上人にあるのではなく、1200年前に62年の生涯を送った俗称佐伯の直某(さへきのあたひなにがし)という一人の人物にあったようです。



 作家は、「空海の風景」について、作品の中でしばしば小説であると言っています。相当に綿密な考証をしながらも小説=フィクションであると強調しなければならなかったのは、史実に反すること、あるいは、空海自身の言説に矛盾するような記述が見られることから、なんとなく納得できるようです。

 たとえば、空海の出自について、日本書紀等の資料から、蝦夷であると推断していることについては、面白い着眼点であり、それなりに説得力を持っています。しかし、天長5年(西暦828年)頃、空海が55才の時(最澄が入寂して六年後)、大伴宿称国道が蝦夷征討の任を帯びて出立するに際して、詩を贈り、文章を添えているのですが、仮に空海が蝦夷の末裔であるとすれば、理解に苦しむような内容が記されているのです。
”景行皇帝、撫運(ぶうん)の日、東夷(とうい)未(いま)だ賓(ひん)せず。日本武尊(やまとたけるのみこと)、左右の将軍、武彦武日(たけひこたけひ)の命(みこと)等を率ゐてこれを征するに、毛人(ぼうじん)面縛(めんばく)せらる。
… 中略 …
 武日(たけひ)、これを平(たひら)げしより己来(このかた)、毎(つね)に時々(をりをり)に逆(そむき)をなす。諸の氏(うぢ)を遣(つか)はして将(しょう)としてその辜(つみ)を罰せしむ。
 しかれども猶(なほ)、人の面(おもて)、獣(けだもの)の心ありて朝貢(てうこう)を肯(がへん)ぜず。”

(景行天皇の諸国平定の折、蝦夷はいまだ服従しようとしなかった。父の命を受けたヤマトタケルは、タケヒ将軍等を従えて征伐に向ったところ、蝦夷は戦うことなく降伏した。
… 中略 …
 タケヒ将軍が平定してから後も、蝦夷は、反逆を繰り返してきた。歴代の朝廷は、何度か征夷大将軍を派遣して、蝦夷の反逆罪を罰してきたところである。
 しかし、蝦夷は顔付きは人間であっても、心は獣畜のようなよこしまなものであって、ミカドへの貢ぎ物をしようとしない。)

 -贈伴按察案平章事赴陸府詩、并序。「性霊集、巻第三」(岩波、日本古典文学大系)(漢文の読み下しは、岩波の大系本により、現代語は、拙訳による)



 この中で私が気にかかるのは、「人の面、獣の心ありて」とする部分です。

 空海が生を享けた、讃岐の佐伯氏は、作家が言うように蝦夷の末裔であるかどうかはともかくとして、当時の地方豪族の一員であったことは疑いのないところです。従って、氏の由来については、それなりの伝承があったと考えるのが自然であり、空海も幼いときからよく聞かされてきたはずです。

 だとすれば、自らのルーツである蝦夷に対して、「人の面、獣の心ありて」というような表現をするでしょうか。自らの先祖に対して、人間性を全面的に否定するような言辞を弄することは、通常では考えられないことでしょう。

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