司馬遼太郎と空海 -その7

 作家は、俗に「セックスの教典」とも言われている理趣経(般若波羅密多理趣品)を取り上げ、空海の性の問題を更に掘り下げていきます。この教典は、空海が重要な教典と考えていたものの一つで、現在の真言密教のみならず、他の宗派においても主要な教典とされているものです。

”いわゆる妙適(みょうてき)清浄(しょうじょう)の句、これ菩薩の位(くらい)なり。”(所謂妙適清浄句是菩薩位)



 これは、理趣経本文の冒頭部分にでてくる言葉であり、「十七清浄の句」とされるものの最初のもので、清浄についての総論とされているものです。

 作家は、この経文を『男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄であり、とりもなおさざそのまま菩薩の位である。』という意味でとらえています。

 ”妙適”は、サンスクリット語のスラタ(surata 蘇羅多)の訳語とされ、「性交の一境地をあらわしている」と作家は解し、上のような理解に達しています。

 一般に、真言密教の教学の立場からは、この理趣経におけるセックスの表現を、あくまで単なる比喩として捉えようとしています。(たとえば、松長有慶「理趣経」-中公文庫)

 しかし、作家は、決して比喩的な表現であるとは考えていませんし、空海もそうであったろうと述べています。健康な男子として人一倍旺盛であったに違いない自らの性欲に直面した空海が、命がけの格闘の末に、性欲を肯定した上で超克し、無我の境地に至れば一転して清浄なものとなると悟ったようですが、現在の私には、よく理解できません。もっとも、これを比喩的なものであるとする考え方は、より一層私の理解から離れていきます。



 理趣経は、現在でも理解が難しいとされていますが、1200年前の空海の時代でもその扱いが難しいものであったようです。

 その為であったのでしょうか。空海と最澄との間で生じたトラブルの一つが、この理趣経をめぐるものでした。

 最澄、-日本天台宗の開祖であり、空海より7つ年上です。延暦23年(西暦804年)7月6日、第16次遣唐使の一員として、最澄は空海と共に唐に向っています。もっとも、二人が乗った船は別々ですし(空海は正使である藤原葛麻呂と共に、指揮船の第一船に乗り、最澄は藤原清公と第二船に乗っています)、社会的な立場は、最澄の方がはるかに上でしたので、二人の接点はほとんどなかったようです。

 二人の交際が始まるのは、最澄が延暦24年(西暦805年)に帰国し、空海も予定を大幅に短縮してその翌年の大同元年(西暦806年)に帰国してからのことです。



 最澄は、年下であり格下でもある空海に対して、最大限の礼を尽くして接しています。最澄は自らを「弟子」と称し、空海を「師」と崇めているほどです。

 空海が持ち帰った経典の借覧、空海が長安で恵果(けいか)和尚から学んだ密教の伝授、-最澄はこれらのことを念頭に、文字通り三顧の礼を尽くしています。

 弘仁四年(西暦813年)11月23日、最澄は空海に手紙を書き、理趣釈経(不空訳の理趣経の注釈書)の借覧を求めました。最澄47才、空海40才の時のことでした。

 しかし、辞を低くして懇請する最澄に対して、空海は理趣釈経の貸与を拒絶しました。

-理趣経は、いくら立派な注釈本に頼ったところで、経典を読むだけではいけないというのです。それどころか、しかるべき修法を実践しないで経典だけに頼ろうとすると、かえって害悪をまき散らすことにもなりかねない、あなた(最澄)が教えに従って修法し、その段階になったら、喜んで貸与しよう、それまでは駄目である、-



 空海の長文の手紙は、まさに師が弟子に対して教え諭すように、かんでふくめるように書かれています。

 当時の日本仏教界における第一人者であった最澄に対してのものであるだけに、驚きですね。理趣経がともすれば誤解され易い経典であることは、空海が経典の注釈書の貸与を拒否した事実から端的に判る気がいたします。

Loading