185 碩学の警鐘 -2

***その2)

 40年余り前、私は大学院で経済学の勉強に励んでいた。J.M.ケインズの「貨幣論」とドン・パティンキンの「貨幣、利子、及び価格」-貨幣理論と価値理論との統合、の輪読を軸としつつも、産声を挙げたばかりのポートフォリオ・セレクションとかターンパイク理論などについて、研究仲間とともに取り組んでいた。長澤惟恭教授、藤野正三郎教授には懇切丁寧に教わったほか、折にふれて都留重人教授の指導も受けた。

 なかでも、トービン等によって始められたポートフォリオ・セレクションの理論は、初期のコンピュータを使いながらも当時は多分に観念的なものであり、単なる数学的な遊びの域を超えるものではなかったが、その後、コンピュータの飛躍的な発達と金融経済界からのニーズの増大によって、実務的な進展を遂げ、その当否はともかくとして、今や金融工学としてファイナンス理論の中核をなすまでになっている。

 私が初めて宇沢弘文氏の名前を知ったのは、経済学徒として模索を続けていた、このような時であった。宇沢氏はその頃からすでに新進気鋭の経済学者として世界的に知られており、私達後進の憧れの的であった。今、改めて考えてみるに、私は24歳、宇沢氏は14歳上の38歳であった。
 宇沢氏のことがとくに話題になったのは、経済学者として国際的に認知されていたことに加え、氏の出身が経済学科ではなく、数学科であったことだ。宇沢氏は東京大学の経済学部ではなく、理学部の出身で、そこから経済学の分野へと進み、しかも若くして世界的に認知されていたことが私達には新鮮な驚きであり、その驚きが憧憬の念へと変っていったのである。
 当時の一橋大学の経済学は、大きく2つに分れていた。近代経済学、あるいはケインズ経済学とマルクス経済学である。マルクス経済学は経済学の名を有するものの、多分に思弁的なものであり、古代ギリシャ以来のヨーロッパ哲学の系譜につながるものだ。それに対してケインズ経済学は、ケインズ自身が学者である以前に実務家であったこともあって、多分に実用的なものであり、その有効性はともかくとして現実の経済政策の理屈付けに用いられるものであった。
 こと数学の利用に関していえば、マルクス経済学は、加減乗除の算数レベルのものが散見される位のものであったし、ケインズ経済学についても、微分、偏微分、あるいは行列が出てくる位のもので、さほど頭を悩ますことはなかった。ただこれはあくまでも当時の一橋の学部、大学院の講義レベルの話であって、世界の流れはより高度な数学を用いるところにきていたのである。
 そのような時に現われたのが宇沢弘文氏であった。アダム・スミスの「国富論」、マルクスの「資本論」、ケインズの「一般理論」、シュンペーターの「経済発展の理論」等、基本となる文献を、それこそ一字一句もおろそかにしないで丹念に読み込むことを教わってきた私達にとって、数学を武器にして瞬く間に世界の檜(ひのき)舞台に躍り出た宇沢氏はまぶしくも驚異的な存在だったのである。
 その後私は自らの能力の限界を悟り、大学院を中退し、会計士として生計をたてることとなった。経済学の勉強からは離れたものの、一国の経済についての関心は強まりこそすれ、決して薄れることはなかった。
 近いところでは、経済学者である竹中平蔵氏が小泉純一郎首相の手先になって、どこかからの借り物の理屈を振り廻しては日本の国を引っかき回し、日本の財政と経済とを悲惨な状況に追い込んだことが気になっていた。ひとり苦々しい思いを噛みしめていたところに出会ったのが、宇沢弘文氏の快刀乱麻を断つ寄稿文であった。似たような論旨を展開している論者は宇沢氏以外にも見受けられるが、まともな経済学者からのものは、寡聞にして知らない。竹中氏が信奉している借り物の怪しげな経済学はともかくとして、経済学は本来いいかげんなものではないし、他の検証に耐えないようなヤワなものでもない。単なる評論家あるいはジャーナリストではない宇沢氏の所論の背景には、その小論文の数十倍にも及ぶデータとそれを解析した論理プロセスが存在しているはずだ。宇沢論文が迫力をもって私達に訴えかける所以(ゆえん)である。

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