冤罪の構図 -6
- 2007.07.03
- 山根治blog
ここまで書いてきて私の脳裏によぎるのは、9年前に自ら命を絶った一人の秀れた政治家の姿です。
新井将敬(あらいしょうけい)。昭和23年1月12日、在日韓国人として大阪に生まれる。旧姓、朴景在。16歳のとき日本に帰化し、新井将敬を名乗る。東京大学経済学部を卒業し、キャリア官僚として大蔵省へ。故渡辺美智雄氏に見い出されて政界に進出、新保守主義のエースとして鳴らす。平成10年、捏造された株疑惑のさなか、自決。享年50歳。
在日の星であっただけでなく、広く、日本政界の希望の星でもあった新井将敬氏が、自らの命に終止符を打ったのは、平成10年2月19日のことでした。私が不当に逮捕されてから2年後、291日もの長期勾留の後、保釈されてから1年余りが経過し、私の拘禁症状もようやく癒えた時のことです。
新井代議士自決の臨時ニュースが流されたとき、あまりのことにしばし呆然(ぼうぜん)とし、固まってしまいました。65年生きてきた人生の中で数多くの死と出会っていますが、直接的なかかわりのない人の死によってこれほどの衝撃を受けたのは、作家の三島由紀夫が壮烈な自刃を遂げた時以来のことです。時に私は28歳、会計士試験を受けた直後のことでした。茨城の田舎で三島自決の報をテレビで知り、一瞬何が起ったのか理解できず、頭の中が真っ白になったことがまるで昨日のことのように甦(よみがえ)ってきます。
45歳の若さで切腹して果てた天才的作家と、政治家としてはこれからという50歳の若さで自決に追い込まれたニューリーダー的存在の政治家。二人は世代を異にし、活躍した分野も違ってはいましたが、共に東京大学からキャリア官僚として大蔵省に入り、それぞれの志を持って転出し、目覚しい活躍をしている最中(さなか)の突然の死でした。
不世出(ふせいしゅつ)の作家は私より17歳の年上、秀れた識見を持ち夢の実現に邁進(まいしん)していた政治家は私より6歳の年下。ともに一面識もありませんでしたが、心から尊敬し、同じ日本に生まれて同じ時代を共有できる喜びを味わっていただけに、そのショックたるや並大抵のものではありませんでした。こうして二人についての私の想いを書き綴っているだけでも、とめどなく涙が湧いてくるのです。
平成9年12月、新井代議士は突然のマスコミ報道によって一方的に糾弾されることになりました。東京地検特捜部のリーク(捜査情報の横流し、もちろん違法です。)によるものでした。通常の捜査情報の漏洩でももちろん許されることではありませんが、新井氏の場合は、犯罪となるように故意に歪められた情報だったのです。ヤメ検の田中森一弁護士が自白しているような、仮定のストーリーということです。立件に先立って仮定のストーリーが意図的にマスコミにリークされ、その結果誤った世論が形成されていきました。検察当局が勝手に創り上げた仮定のストーリーがまるで真実であるかのように一人歩きを始め、ダーティーなイメージの形成へとつながっていきました。
日興証券が新井氏の要求にもとづいて、株取引の利益の付け替えによって不正な利益を提供したという事実に反するストーリーが組み立てられ、新井氏が証券取引法で禁じられている利益要求の罪を犯したと、まことしやかに喧伝(けんでん)されたのです。
東京地検特捜部は、マスコミに向けてデタラメ情報をリークしつづけ、批判精神の欠如したマスコミは、新井代議士についてあることないことおかまいなしに情報のタレ流しを行ない、世論を煽り立て新井氏のダーティーな虚像を創り上げていきました。
政界の若きヒーローが一転してお金に汚いダーティーなイメージの存在へと転落。検察とマスコミの共同作業によって創り上げられた新井氏のダーティーな虚像がピークに達したころを見はからったかのように、東京地検は、証拠隠滅のおそれありという、お決まりのフレーズをつけて、国会に対して新井代議士の逮捕許諾請求を出すに至りました。新井氏は大勢のマスコミを前にして記者会見を行ない、自らの潔白を証明する証拠を提示したのですが、どのマスコミもまともに検討しようとさえしませんでした。まさに、マスコミによる一方的な人民裁判の様相を呈し、誠実な一人の政治家の心の叫びは無残にも踏みにじられたのです。
頼りにしていた政治家仲間は、触らぬ神に祟(たたり)なしとばかりに新井代議士から離れていきました。国会の逮捕許諾を直前にひかえて、捕縛(ほばく)の辱(はずかし)めを受けるくらいなら、と思いつめたのでしょうか、新井氏は50年の人生を自らの手で完結させたのでした。
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ここで一句。
(いや、三百代言です。)