2014年

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「福沢諭吉の正体」-⑫

 福沢諭吉は、広辞苑によれば「思想家・教育者」(「福沢諭吉の正体-①」参照)だそうである。  教育者についてはすでに述べた通りなんともオソマツなものであった。当時の西欧の学問のごく一部、しかも皮相的かつ初歩的な部分を実学と称して日本に紹介し、鼓吹しただけの人物だ。現在の学習塾とか予備校の経営者と変るところはない。教育者というよりも、慶応義塾というレベルの低い学習塾の経営者であったということだ。   […]

「福沢諭吉の正体」-⑪

 前回述べたように、日本の正史の記録(日本書紀)は、伝承されたままのものを素直に読む限り、福沢諭吉が述べていることとは相いれない。  改めて、古田武彦が引用している部分(「福沢諭吉の正体-⑩」)を拡大して、ここに引用する。「我(わが)日本国に於(おい)ては、古来今(こらいいま)に至るまで真実の乱臣賊子(らんしんぞくし)なし。今後千万年も是(こ)れあるべ可(べか)らず。或(あるい)は今日にても狂愚者 […]

「福沢諭吉の正体」-⑩

 『学問のすすめ』冒頭の一句、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が、そもそも福沢の思想になじまないと古田武彦が論断し、安川寿之輔氏が追認しているのは尋常のことではない。まさに福沢諭吉の思想の根幹にかかわることであり、福沢の全人格をも規定しかねないことだからだ。  古田は論断するにあたって、福沢の『帝室論』の一節を引用する。「我日本国に於(おい)ては、古来今に至るまで真実の乱臣賊子なし。 […]

「福沢諭吉の正体」-⑨

 前回述べたように、福沢諭吉は日本の一般大衆を見下し、馬鹿扱いしていた。江戸時代の、 +士 +農 +工 +商 +エタ・非人 のうち、自らの所属する1.の士、つまり武士階級と公家(くげ)、更には2.~3.のうち経済的に豊かな豪農・豪商のみを日本国民とし、2.以下の貧しい農・工・商・エタ・非人は一段低い階層に属するものと考えていたのである。差別されていたのはエタ・非人(明治になってから新平民と呼称)だ […]

「福沢諭吉の正体」-⑧

 福沢諭吉の「脱亜論」がどのように形成されていったのか、安川寿之輔氏の論述(『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』)をもとにまとめてみる。  まず福沢の一般大衆に対する見方がいかなるものであったのか、これを見定めることが出発点となる。  すでに述べた(「福沢諭吉の正体」-①参照)ように、福沢は日本の一般大衆に対して偏見を持ち、彼らを「百姓町人の輩(やから)」と称し、「豚の如き存在」であると蔑視していた。た […]

「福沢諭吉の正体」-⑦

 福沢諭吉は、いわば大工(簿記)の見習いであった。見習いが始めた学習塾が慶應義塾だ。当時、匠(たくみ)のレベルに達した大工(番匠。ばんじょう。)が日本にいないことをいいことに、自ら番匠風(かぜ)を吹かせ、棟梁として一般の家屋の建築(私企業の会計)を請負っただけでなく、宮大工として寺社の建築(公的部門の会計)をも請負った。  今から140年前、簿記を『帳合の法』としてアメリカから導入した福沢諭吉を大 […]

「福沢諭吉の正体」-⑥

 実は、『帳合の法』にも、当時のアメリカで借方、貸方をめぐって、学者の間で甲論乙駁(こうろんおつばく)の議論が交されていたことが記されている。  「借と貸の事」として、難しい問題があることを指摘して、『帳合の法』は、“借と貸の字をよく解して其字の義を明(あきらか)に定(さだむ)るは勘定学の一大難事にて、これがためには勘定の学者先生も常に困却せり。”(『帳合の法』-p.475)と述べ、“元来学義を説 […]

「福沢諭吉の正体」-⑤

 簿記、福沢諭吉のいう「帳合の法」において要(かなめ)になるのは仕訳(しわけ。福沢は清書と訳している)である。商取引を借方と貸方に分解すること(「取引の借貸を定むること」)だ。前々回述べた通りである。  この仕訳なるもの、よく考えてみると一筋縄でいくシロモノではない。何故借方になるのか、あるいは何故貸方になるのか疑問を抱いたら、もういけない。その理由を考えだしたら訳が分らなくなってしまうのである。 […]

「福沢諭吉の正体」-④

 福沢諭吉は、「帳合の法」が簡単に修得できる技術であり、使いようによっては実際に役に立つことから、飛びついたものと思われる。  日本には古来からの記帳方法-大福帳方式-があった。福沢が生れた江戸の末期には、この記帳方式は、朝鮮王朝の開城(けそん)簿記と同様に、記帳方法としては世界最高レベルに達していた。ソロバンを並用することによって、経営の実態を的確かつ迅速に把握することができる優(すぐ)れもので […]

「福沢諭吉の正体」-③

 確かに簿記は、使い方さえ誤らなければ役に立つ技術である。福沢諭吉が、いちはやく実学の代表的なものとして簿記、つまり「帳合の法」を翻訳して紹介したのも、誰でも短期間で容易に修得できる簿記の有用性に着目したからであろう。  このように、簿記は秀れた技術である。しかし、簿記はあくまでも仮定にもとづく産物であって、間違っても学問と呼べるようなシロモノではない。  『帳合の法』で説明されている簿記は次のよ […]

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