「福沢諭吉の正体」-⑩

 『学問のすすめ』冒頭の一句、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が、そもそも福沢の思想になじまないと古田武彦が論断し、安川寿之輔氏が追認しているのは尋常のことではない。まさに福沢諭吉の思想の根幹にかかわることであり、福沢の全人格をも規定しかねないことだからだ。

 古田は論断するにあたって、福沢の『帝室論』の一節を引用する。「我日本国に於(おい)ては、古来今に至るまで真実の乱臣賊子なし。今後千万年も是(こ)れある可(べか)らず。…若(も)し必ずこれありとせば、其者は必ず瘋癲(ふうてん)ならん。」(全集5巻、P.262) 古田はこの一節を一読して呆然(ぼうぜん)としたという。たしかに、古田ならずとも、正史とされている『日本書紀』を通読した者なら誰しも目を疑うに相違ない。

「我日本国に於ては、古来今に至るまで真実の乱臣賊子なし」

など全くのウソッパチだ。このような見えすいた嘘をよく言えたものである。『日本書紀』の中では乱臣賊子のオンパレードではないか。それらが全て瘋癲(精神状態が正常でない人。-広辞苑)であったというのか。加えて、天皇一族の皇位をめぐる血なまぐさい殺し合いとか、古代ローマのネロとかカリグラを思わせるような残虐な天皇の行状が生々しく記録されているではないか。人殺しを趣味にしていた武烈天皇など、乱臣賊子よりタチの悪い「乱帝賊帝」ではないか。
 戦後菊のタブーから解放されて、『日本書紀』も黒塗り、あるいは削除の部分がなくなった。伝承されたままの形で『日本書紀』を読むことができるようになった現在、福沢の見えすいたウソッパチなど通用するはずがない。

 ただし、一つだけ例外がある。事実上神社本庁がかかわっている『神典』(大倉精神文化研究所編輯、神社新報社発行)だ。神社本庁の傘下にある全国の神主たちのバイブルである。かって多くの若者を洗脳して戦場へと送り出し、死へと追いやった国家神道のバイブルだ。私の父、山根万一も現人神を信じ切って32歳の若さで戦死した一人である。
 この『神典』、天皇が万世一系の現人神(あらひとがみ)とされていた昭和11年に初版が発行されて以来、版を重ねて2万5千部刊行されている。しかし戦後、天皇自ら現人神であることを否定し、人間宣言を行なった後においては絶版となっていたものだ。
 ところが、昭和42年(1967)2月11日、かつての「紀元節」が「建国記念日」として復活したのに合わせて復刊され、現在に至っている。私の手許にある『神典』は、本文.2156ページ、神典索引.396ページという分厚いもので、平成24年9月28日現在で実に22版を重ねている。
 この『神典』、端的に言えば、明治維新に際して創作されたフィクション、つまり、天皇は万世一系の現人神(あらひとがみ)であるという「つくりごと」を、もっともらしいものに見せかけるために、日本の古典に小細工を施したトンデモないシロモノだ。

『神典』復刊の辞(昭和42年2月11日)は、

「この『神典』に収載の古典は我民族精神の淵源するところを伝へ、わが国の正史と文化の根底に働いてその形成の原動力となってきたものであり、われわれの祖先から子孫へと永久に継承さるべき貴重な宝典である。」

と述べているが嘘である。
 収載されている古典は、古事記、日本書紀を筆頭に、古語拾遺、宣命【続日本紀抄】附中臣寿詞、令義解【抄】、律【抄】、延喜式【抄】、新撰姓氏録、風土記、万葉集【抄】であるが、まず、物部氏の伝承とされている旧辞本紀とか高橋氏文が恣意的に外されているし、何よりも古事記とか日本書紀にしてからが、

「わが民族精神の淵源するところを伝へ」

ているものではない。
 古事記も日本書紀も日本の誇るべき古典であることについては勿論異論はない。しかし、これらは一握りの支配者の側がまとめ上げた、自分達にとって都合のいい歴史書であって、99%以上の一般大衆とはほとんど関係のないものだ。従って、「わが民族精神の淵源」などではありえない。
 加えて、東北地方以北に居住していた人々(アイヌ民族)をエミシ(蝦夷)と呼び、神武東征以前に吉野に居住していた人々をクズ(国栖)と呼び、九州に居住していた人々をクマソ(態襲)、あるいは各地の先住民をツチグモ(土蜘蛛)と呼んで、ヤマト朝廷に服従すべき蕃族としていたのであるから、当然に「わが民族」ではない。
 更に言えば現在の沖縄とか北海道については、古事記にも日本書紀にも影も形も見えない。沖縄とか北海道は蕃国の一つとされており、そこに住む人々は蕃族と考えられていたのであろう。これまた「わが民族」ではない。
『神典』には以上のような根本的問題点があることに加え、各古典に手を加え、いいとこどりをしているのである。粉飾である。
 天皇神話(フィクション)にとって都合のよいところだけをピックアップしてみたり(とくに万葉集)、あるいは、都合の悪いところは削除したり(とくに日本書紀、宣命(続日本紀))と、やりたい放題である。古典に対する冒瀆である。
 このような『神典』の世界、即ち、神道を標榜する神主たちの世界においてだけは、福沢諭吉の前述のような見えすいたウソッパチがまかり通っているのかもしれない。

(この項つづく)

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 ここで一句。

”茶色ってお茶の色ではありません” -横浜、おっぺす

 

(毎日新聞、平成26年9月27日付、仲畑流万能川柳より)

(いやいやどうして、煎茶(黄緑)、抹茶(濃緑)は日本人が磨き上げた富裕層向けの比較的新しいもの。中国では団茶の歴史が長くつづき、それがヨーロッパに持ち込まれて紅茶に。日本でも一般庶民のお茶と言えば番茶、しっかりした茶色です。刑務所、拘置所で支給されるお茶(「冤罪を創る人々ー096 原体験への回帰」参照)も番茶と決まっています。ちなみに、わが事務所のお茶も番茶。)

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