100年に1度のチャンス -31

 情報という宝の山がほとんど手つかずで放置されているのは、何も企業情報だけではありません。公共機関が作成して垂れ流している、おびただしい量の情報も同様です。しかも、企業情報の代表格である有価証券報告書とは異なり、たとえいかがわしい情報であってもインチキの仕放題、チェックするところもなければ、インチキがバレても誰も罰せられることがありません。

 「粉飾された2兆円」は、国交省が行っている費用対効果の計算がデタラメであることを具体的に指摘したものです。私が取り上げたのは、この30年来延々と続いている7,000億円の斐伊川治水事業ですが、一応建前としては、中国地方整備局事業評価監視委員会という名のもっともらしいチェック機関があり、公表された計算結果を審議して検討したことにはなっています。10人前後のこれまたもっともらしい肩書の人達が名を連ねてはいるものの、ネットで公表されている議事録を見る限り、具体的な検討が全くなされていないのです。これらの人達は学識経験者ということになってはいるのですが、こと河川局の費用対効果分析についてはほとんどご存じないようですし、それをいいことにして役人達が審議の場に具体的な算定のプロセスを開示していないようなのです。役所の単なるイエスマン、つまり盲判(めくらばん)を押す追認機関でしかないのでしょうか。

 この7,000億円の公共工事は、費用対効果の観点からは、最大限で1,000億円がいいところで、差し引き6,000億円は不要不急のムダなものです。現時点ですでにムダな5,000億円の工事が完了しており、残りの2,000億円についてもこの後30年もかけてムダな工事の上塗りをしようというのです。
 このようなムダな工事は、この斐伊川治水事業だけではありません。北は北海道から、南は九州まで、国交省は同じようなゴマカシをして国民の血税を湯水のように使ってきましたし、今後とも使おうとしています。このことは「粉飾された2兆円-10」で詳述したところです。
 費用対効果のゴマカシについては、一年ほど前には国交省の道路事業だけが国会で取り上げられ、それなりの見直しの機運が盛り上がってきたようですが(もっとも、このところ景気浮揚という大義名分のもとに選挙目当てのバラマキが復活してきたようです)、同じ国交省でもダムとか河川といった治水事業については費用対効果の正否の検討が全くなされてはいません。治水事業のゴマカシの大きさに比べると、道路工事のゴマカシなどまだ可愛いものです(「粉飾された2兆円-1」)。

 情報に関して言えば、総務省が公表している「個別公共事業の再評価結果一覧」は、ゴマカシ情報のオンパレードですから論外です。しかし、私達にとって有用な情報が数多く開示されていることは事実です。しかも最近はネット上でどんどん開示されるようになっています。しかし、現在のところは単に開示されているというにとどまり、情報としての使い勝手が悪く、私達が十分に活用することはできません。つまり、情報という宝の山が眠っているのです。

 昨年のリーマン・ショック以来、金融・証券だけでなく、多くの分野で赤字を計上する企業が続出しています。このことは、従来のビジネス・モデルが通用しなくなった、つまり崩壊したことを示唆しています。この例として取り上げたのがトヨタ自動車でした。
 多くの分野でビジネス・モデルが崩壊した、このことは、裏をかえせば多くの人に新しいビジネス・チャンスが生まれたことを意味します。大企業だけでなく、中小企業にも、あるいはこれまで全く事業をしたことのない人達にも平等にチャンスが与えられたということです。しかも、これまでは新規事業といえば相当の資金を必要としたのですが、これからは必ずしも資金は必要としない、逆に言えば、金にまかせて強引に事業を展開していく時代ではなくなったということです。
 たとえば上場企業でさえあれば、これまでは低コストで容易に資金調達ができたために、レバレッジ経営とか称してどんどん借入金を増やしたり、あるいはやみくもに増資を行って株式市場から金をかき集めたりして、手当り次第に会社を買収しては事業規模を拡大し、グループをフーセンのように膨らませ、その挙句、連結だけでなく単体の決算書もまるで化け物のような姿になっている企業が数多く見受けられます。ソフトバンク、楽天、光通信などその典型といっていいでしょう。このような事業のやり方は、バブリーな徒花(あだばな)であり、これからは通用しなくなるものと思われます。

 私達の世代とそれに続く、いわゆる団塊の世代の人達は、戦後日本の繁栄を築いてきました。私は現在66才ですから、私達の世代の大半は勤め人であればすでに第一線を退き、第二の人生に入っています。また、団塊の世代の人達はこれから定年に向かい、第二の人生を目指すことになるでしょう。
 60才は還暦、一つの節目です。人生の締めくくりである老年に入っていくという見方もできるでしょうが、一方、60才まで生き長らえてきたという点を考えれば、それだけの体力と気力が具っていたからこそ、とも言えるのです。体力が衰えるのはいたしかたないのですが、それを補うかのように気力とか判断力が逆に増大するのではないか、つまり、これまで見えなかったものが見えてきた、同じものでも全く違うものとして理解できるようになってきたといったことです。これは、私自身の体験でもあり、私のまわりにいる同年輩の人達、あるいは元気な70才、80才の諸先輩に接して常日頃実感しているところです。衰えていくだけが老年ではないということです。
 仕事がない、職がない、といって嘆く前に、今一度自らの足元を見つめてみたらどうでしょうか。つまり、仕事は他人から与えられるもの、という考え方を改めて、自分で見つけ出していくもの、積極的に創り出していくもの、という考え方に切り換えるのです。多くのビジネス・モデルが壊れ、パラダイムのシフトが現実となっているのです。自分にふさわしい仕事が見つからないはずがありません。

 定年になったら年金生活をして、庭いじりをしたり、ゴルフとか旅行をしたりという生活もいいでしょうし、そのような裕(ゆと)りのない人はパート勤務をしたりして生活をするのもいいでしょう。
 しかしどうでしょうか。長年社会の第一線で働いてきて身につけたノウハウ、それが還暦という人生の節目を迎えて、一段と高いレベルのものになっているとしたら、それを積極的に生かすことはできないでしょうか。60年かけて身につけてきた、その人にしかない貴重な情報は必ずや誰にでもあるはずです。そのまま埋もれさせてしまうのはなんともモッタイナイ。次の世代に引き継ぐようにすることはできないでしょうか。
 これまでのビジネス・モデルは崩れた、パラダイムが劇的に転換した、ビジネス・チャンスは老若男女、より平等になった、やろうと思ったら金などなくとも何かができる、若い人達だけでなく、老年期に入っている私達の世代でも何かができる、- 私が「100年に1度のチャンス」と題して書き進めてきたのは、このようなことを考えていたからでした。

(この項おわり)

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 ここで一句。

“初恋の 人はフケメン なっていた” -伊賀、頓馬天狗妻。

 

(毎日新聞、平成21年5月5日付、仲畑流万能川柳より)

(初恋は、夢かうつつか幻か、うつつに逢いて夢を散らすな。)

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