127 うっぷん晴らしとしての反則行為 -その2

****2)その2

江戸時代に犬公方(いぬくぼう)と呼ばれた将軍がいた。第五代将軍徳川綱吉である。天下の悪法として名高い「生類憐みの令」を発した人物だ。

「生類憐みの令」は、貞享2年(1685年)7月14日に出された触(ふれ)が、文献上で残っている最初のものとされている。

この御触は、

“先日申し渡し候通り、御成遊ばせられ候御通り筋へ犬猫出し申し候ても苦しからず候間、何方(いづかた)の御成の節も犬猫つなぎ候事無用たるべきものなり”

という誠に穏やかなもので、将軍が街中に御成りになった際にも、犬猫を綱につなぎとめておく必要はないとするものであった。
その後、綱吉の死(宝永6年、1709年)に至るまでの24年の間に個別の法令(御触れ)が矢継早に発せられ、規制内容は次第にエスカレートし、激しさを増していった。中でも犬に関しては、元禄7年(1694年)が激しさのピークとされており、犬を殺したことをもって、市中引き回しの上、獄門さらし首になった者さえあった。
元禄時代といえば、戦乱の世は遠く過去のものとなり、天下は太平の世を謳歌し、「生類憐みの令」が特に厳しく施行された江戸の町においては、いわゆる元禄文化の華が開き、経済的にも豊かになった江戸町民の意気たるや盛んなるものがあった。
犬を殺したり、粗末に扱ったりしたら、死罪とか島流しになる訳で、江戸っ子としたらたまったものではない。「てやんでえ」とは思いながらも、表立ってお上を非難することもできず、鬱憤が溜りに溜っていたことであろう。
江戸っ子も、唯々諾々としてお上のなすがままになってはいなかった。洒落っ気のある町人が誠に珍妙なうさ晴らしの方法を考えついた。町の中に桶をすえつけ、ご丁寧に桶とひしゃくに“犬かけ水”と筆で記し、番人には「犬」印の羽織を着せて、この稀代の悪法を痛烈に皮肉った。噛み合って喧嘩をしている犬をみつけたら、水をかけて引き離せ、という次のようなお触れに呼応したものだ。

“元禄七甲戌(きのえいぬ)二月廿八日、端々(はしばし)にやせ犬多く相見え候、いよいよ念を入れ養育仕り候やう仕るべく候。かつまた、向後御用先にて犬喰い合い候とも、早速水にても掛け、引き分け候やうにと、但馬守殿仰せ渡され候間、有り合ひの面々へ申し渡し候。”

お上も黙ってはいない。おちょくられたことに業を煮やして、この年の5月にはお触れを出して禁止してしまった。不粋である。

 

町中にて犬かけ水と桶に書き付けいたし、ひしゃくにも書き付けこれ有る由、または番人に対(つい)の羽織を着せ、犬といふ字を紋所に付け、指し置き候由相聞え候。桶ひしゃくの書き付け、対の羽織きせ候義、早々無用に仕り、水指し置き番人付け候義も目に立たざるやうに仕るべく候、以上。
右の通り相心得申すべく候。併せて犬の儀そまつに仕らず、諸事いたわり申すべく候、この旨町中残らず相触れらるべく候、以上。

閏 五月三日“

罰則まで付いている理不尽な規則という点では、拘置所の規則と同じようなものである。規則を運用する役人たちのサジ加減一つで処罰の度合いがどうとでもなることもそっくりだ。
元禄の世の江戸っ子のようなウイットには遠く及ばないものの、拘置所の中では私なりの方法で鬱憤を晴らしていたのである。

 

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