147 松尾芭蕉と夢紀行 -その4

****4)その4

舞台は一転、平安の初期にタイムスリップする。元禄の世から遡ること900年、都は奈良の地から長岡へと遷されたばかりである。

東北の守り、多賀城は宝亀11年(780年)、蝦夷(えみし)によって焼き打ちされ、灰燼に帰したものの、いちはやく再建され、再び豪壮な姿を誇っていた。

時は延暦4年(785年)、人麻呂と並ぶ万葉の歌人大伴家持が、この多賀城で波乱に満ちた68年の生涯を終えようとしていた。
前年の延暦3年(784年)2月、参議東宮大夫(さんぎとうぐうだいぶ)であった家持は、天皇(すめらみこと)から節刀を拝し、征東将軍として多賀城に着任。晩年の父、大伴旅人が、権勢をほしいままにしていた藤原氏にうとんぜられ、西の守りである大宰府の師(そち)に左遷されたように、家持もまた辺境の地に追いやられた。

大伴家持を主(あるじ)に迎えた多賀城は、単なる辺境守備のための兵営ではない。立派な朝堂式の政庁であった。規模こそ違え、西の大宰府に対応するものだ。神亀元年(724年)、聖武天皇即位の年に大野朝臣東人(あづまひと)が設置してから60年、この東国の守りの拠点は、掘立柱建物から礎石建物に全て造り直されている。

大伴宿禰家持。中納言従三位、東宮大夫、持節征東将軍(じせつせいとうしょうぐん)。

名門大伴氏の総領として生を享け、これまでの人生の大半を奈良の都の外で過してきた家持。幼少の頃より文武両面で家庭環境に恵まれ、エリート貴族の一員として華やかな存在であり、際立っていた。ことに文芸においては持ち前の才能を発揮し、後世万葉集と呼びならわされることになる一大詞華集の編纂に携わる幸運にも恵まれた。

家持は病の床で、過ぎ去った歌三昧の日々を回想する、-

当時から歌の聖(ひじり)と崇められていた柿本人麻呂の歌は、伝えられている全てを集めることができた。作者の名前が失われ、歌だけが伝承された秀歌も数多く集めた。天平勝宝7年(755年)、難波の地で自ら選別した東国からの防人(さきもり)の歌をとり入れたのは、兵部使少輔(ひゃうぶのつかひせうふ)のときであった。無事に帰郷し、今ではすっかり年老いたあのときの防人が、時折、館を訪ねてくれる。天皇をはじめ、名のある貴族の歌は、出来のよしあしを考えに入れずに集めた。自らの歌をはじめ、大伴一族の歌も数多く収録することができた。幸せであった。

藤原氏との権力争いから逃避するためにも、万葉集の編纂事業は若い頃の家持にとって大きな救いであったに違いない。万葉集4500余首の中に、国家的イベントであった大仏の造営に絡む歌が一つも見当たらないのは、あるいは藤原一族の権勢に対する黙然たる抵抗であったかもしれない。

天平宝字3年(759年)、家持は、因幡国の国司として詠んだ歌、

“新(あらた)しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)”

 

(万葉集巻20、No.4516)

を最後に万葉集を閉じ、歌人としての自らの痕跡を絶つに至った。その天平宝字の世から既に26年が経過している。
絢爛たる多くの歌を色彩感豊かに唱いあげた天平の歌人家持が、時空を超えて、日本語の美しさを究めた元禄の俳聖芭蕉と相まみえている。二人が出会った想念における歴史の現場に立会うことのできた私は、無常の喜びと幸せに震えた。

 

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