146 松尾芭蕉と夢紀行 -その3

****3)その3

私達三人は、多賀城跡にたたずんでいる。芭蕉、曽良、私の三人である。

松尾芭蕉46歳、私より17歳も若い。現代の奇才、三島由紀夫が自ら命を絶ったのが45歳のときだ。年に不足はない。

河合曽良41歳。芭蕉の忠実な弟子として、師に影のように従っている。ともに、剃髪染衣(ていはつぜんえ)である。

三人とも一言も発しない。無言である。
目の前には苔むした一つの石碑がある。
石碑に顔をつけるようにして、刻まれた文字を目で追っていた歌匠が、やおら矢立を取り出した。一字ずつ、碑文を丁寧に書き写している。曽良も師にならう。
写し終えた歌匠の目にうっすらと涙が浮かんでいる。焦点の定まらぬ眼は、彼方の山の嶺々を泳ぐ。古人のおもかげが、歌匠の想いを通じて、私に伝播し、幻視の世界にいざなわれていく。

夢紀行から覚めた私は、再び歌匠の自筆本に向った。

壺碑(つぼのいしぶみ)

名高い歌枕として、古来多くの歌人に詠まれてきたものだ。
芭蕉が石面の刻字を書き写した石碑は、元禄を遡ること20年ほど前の、寛文の頃に発掘されたものである。それが歌枕の壺の碑と混同されて世に喧伝された。たとえば、源頼朝が大僧正慈円に送った返事の歌、

“みちのくの いわで忍ぶは ゑぞしらぬ 書きつくしてよ つぼの碑(いしぶみ)”

 

(新古今和歌集。“「陸奥(みちのく)」の歌枕「岩手」や「信夫(しのぶ)」、あるいは「蝦夷(えぞ)」ではありませんが、言わずに我慢しているのだとおっしゃるのではお心のほどが分りません。すっかり書き尽してください。壺の石文ならぬ文に記して。” -現代語訳は、久保田淳校注、新潮日本古典集成本による。)

に詠まれている「つぼの碑」ではない、とされている。

歌枕としての「つぼの碑」は、坂上田村麻呂が、陸奥国七戸の北、壺村(つぼむら)に建てたものと伝承され、弓の弭(はず)で書きつけたという。
芭蕉が訪れた石碑は、現在の多賀城碑である。歌匠は、“市川村多賀城ニ有”と記す。
江戸時代に発掘されてから、壺の碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれてきた経緯は、奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)によれば次のようであったという。

『昔、この碑は多賀城の前栽の壺(音は「コ」)のうちにあったことから、つぼのいしぶみという。ちなみに、いしぶみは、碑の字の和訓である。思うに、庭中のつぼというのは、もともと壼(音は「コン」)の字であった。ところが、壼と壺の楷書の字形が紛らわしいことから、門内や前栽などを「つぼ」というようになった。ついに、その和訓まで誤ったのである。』 (抄訳は筆者)

つまり、
-壼(コン): 庭中、門内、前栽 (廣漢和辞典より)
-壺(コ) : 瓶のつぼ (同上)
とが混同して、庭中とか門内のことを「つぼ」とか「つぼのうち」と呼ぶようになり、多賀城の庭にあった石碑を壺の碑(つぼのいしぶみ)と呼ぶようになったというのである。

歌匠は、このような事情を熟知していたのであろう。本来の「つぼのいしぶみ」ではないことを承知の上で、敢えて

“爰至(ここにいた)りて うたかひなき千歳(せんざい)の記念(かたみ) 今眼前に古人の心を閲(けみ)す 行脚(あんぎゃ)の一徳(いっとく) 存命の悦(よろこび) 羈旅(きりょ)の労をわすれて 泪(なみだ)も落(おつ)るはかり也”

と記し、歌枕と多賀城にまつわる古人を偲び、その心情に思いを馳せている。想念の俳人にとって、史実そのものはさほど大きな意味を持つものではなかったのかもしれない。

 

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