128 うっぷん晴らしとしての反則行為 -その3

****3)その3

看守に対して抗弁等をすることは、「職員の正当な職務行為を妨げる行為」(被収容者遵守事項の8)として禁じられている。

“法令、所内生活の心得又は日課実施上の必要に基づく職員の職務上の指示に対し、揶揄(やゆ)、暴言、抗弁、無視その他の方法で反抗的な態度をなし、又は口出しするなどして職務の執行を妨害してはならない。”

看守をからかったりバカヤローなどと暴言を吐いたりしてはいけないし、看守の言うことに逆らったり、シカトしてもいけないのである。
更に、大声を発したり、歌を歌ったり、口笛を吹いたりすることなどもってのほかである。

“故なく大声を発し、放歌し、口笛を吹き、又は壁・扉を叩く等騒音を発して静穏な環境を害してはならない。”(同上、6-(1) )

生まれつきヘソが少しばかり曲がっている私は、理不尽なことを押し付けられると、ヘソがますます曲がってしまう習性を持っている。
声に出してからかうのがいけないというのであれば声を出さなければいいわけで、それぞれの看守にニックネームをつけ、看守が独房に来たり、取調室で尋問されるたびに心の中でつぶやいた。ノートに書くことは禁じられていないので、獄中ノートに記録した。
-逆さボタル (若い看守であったが気の毒なことに頭がツルツルテンで、看守帽を深くかぶって隠していた。)
-蒲焼 (中年の粘着質の看守。顔面がうなぎのようにヌルヌル、ギトギトしていた。)
-鼻大仏 (見事な獅子鼻の持主。鼻がひっくり返っており、2つの鼻の穴が真正面を向いていた。)
-赤モグラ (私と同年輩の看守の親分。私は何回かこの人物に取調室で尋問を受け叱責されたが、その都度この人物の顔面は怒りのあまり赤黒く膨れ上がり、ゴソゴソと地上に顔を出したモグラさながらであった。)
「生類憐みの令」がエスカレートしていくと、人々は触らぬ神に祟りなしとばかりに、できるだけ犬に関わらぬようにしたこともあって、犬の数は増えていき、餌を求めて凶暴になっていった。

元禄8年(1695年)6月には、四谷と大久保に犬小屋が造営されて、「人に荒き犬」が収容された。同年8月には、中野の16万坪の土地に大規模な犬小屋が造られて、江戸市中の飼い犬も含めて大方の犬が収容されることになった。
犬小屋への犬移しは、大勢の江戸っ子の見守る中で行われた。見物人は、役人が手際よく犬を扱いうまく犬移しをすればやんやと囃して褒めたたえ、犬が逃げ出したり暴れたりして役人が手こずったりすればこれまたやんやと囃して笑いものにした。
末端の役人としては、理不尽な政策といえども、上からの命令であれば押し進めなければならない。犬に翻弄されている彼らの姿は、実に滑稽なものであったに違いない。江戸庶民の格好の娯楽であったろうし、またとないうさ晴らしでもあったろう。
元禄13年7月、今後は犬見物をして囃したてたりしないように次のような御触れが出されている。

“辰の7月12日、喜多村にて町々名主へ申し渡す。
頃日(けいじつ)、御小人目付衆犬うつしに遣はされ候節、見物集り、よくうつし候へばほめ申し候、またうつし損じ候へばわらひ申し候。番人も前方(まへかた)は人をも払ひ申し候ところに、只今は一切払ひ申さず候ゆゑ、ぢだらくにこれ有る間、よくよく仰せ付けられ候やう御目付衆より越前守様へ仰せ越され候に付き、右の通りこれなきやう致すべき旨、申し渡され候。“

今から300年ほど前の江戸っ子の理不尽に抑圧された気持が、拘置所暮しを経験した私にはストレートに伝わってくる。
たとえどのような状況に置かれようとも、結構のびのびと逞しく生き抜いていった元禄の人々の姿を、自らの姿にダブらせて楽しんでいるのである。

 

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