010 証券金融を始める前に大量の資産をもっていたことの証明-重要争点その1(補助証明)

****補助証明① 『56年9月関東電化株の大暴落で損した金額の算定による証明』

*****使用資料 

+銘柄別株式売買集計表

+JSBの株券等担保による月別借入状況集計表

+中江作成表3

 主証明において、私が大量の株を、57年3月末、手持ちで保有していたことを証明いたしました。これだけでも、もう十二分と思いますが、念のため、さらに違った角度から、私が手持ちの株を大量に保有していたことを証明いたします。

 手持ちしていたことを証明する方法は、他にも考え出せるのですが、身柄を拘束されておりますので、資料の入手や計算がままならず、さらには資料を入手してから弁論までの時間があまりにも短く、とりあえず、主証明3つと補助証明7つで、57年3月末手持ち株を大量に保有していた証明を終えることにします。



 それでは、今できる範囲の補助証明をいたします。56年9月9日の関東電化株大暴落後も、大量の株券をどこにも担保に入れることなく、私が手許に持っていた証明です。すなわち、57年3月現在、私はお金に困るどころか、大量の資産を手持ち株という形で持っていたことの客観的証明です。



 昭和56年4月24日、町村貞子さんよりソニー株を預かってから後、私は関東電化株を買い越しに転じました。以下、昭和56年4月28日から大暴落の後の56年9月12日までの関東電化株の売買損益を出してみます。

 銘柄別売買集計表の122ページを見てください。
 56年4月27日、銘柄在庫は4万2千株になっています。4月27日夜現在、関東電化株は4万2千株しかなかったということです。翌4月28日から、関東電化株を買い越しに転じたわけです。
 次に149ページを見てください。9月12日、銘柄在庫は73万株となっています。すなわち、4月28日から9月12日の間に73万株マイナス4万2千株で、68万8千株を買い越したということです。

 この4月28日から、大暴落で最も値を大きく下げていた9月12日までの間に、「私が大損をして、前から持っていた資金や、町村家から預かったソニー株を全てなくしてしまい、会社も倒産しそうであった」と、検察官は言っているのです。「10月に、町村愛子さんのところへ2000万円を借りるために行った」とも言うわけです。また、JBSに追証も入れられない程、金がなかった」とも言っているのです。

 果たして私は、そんなにあの大暴落で、大損をしたのでしょうか。公判での供述でも申しましたが、どんなに多くみても1億5千万円しか、損のしようがないのです。私は、検察が損をしたという以上、当然裏付けをとっていると思っていました。しかし、損のしようがない。この矛盾に直面して、キツネに騙されたような気分のままでした。

 そこで、資料がようやく独房に入ってきましたので、計算をしてみました。計算してみたら、何のことはない。1億円強しか、損をしていないじゃないですか。検察官は計算もせず、全くいい加減なことを言っていたわけです。もう少しで、ここでも騙されるところでした。
 そういえば、彼らは57年4月以降は、簿外での株式売買損益を合算して損益を計算しているのに、55年~57年3月末までの損益計算には、株式売買損益を入れていないのです。何故でしょうか。おそらく、利益が出ているか、そんなに損をしていないか、どちらかでしょう。57年4月以降で損益計算に含めた以上、57年3月以前も含めるべきなのです。準備手続きでの説明では、55年2月より株式売買損益を全て計算していると言っていたじゃないですか。検察にとって不利な証拠は出さず、都合が悪くなると計算に含めもしないという姿勢は、明らかに間違ったやり方です。
 検察が正しい資料を出してくれないというのであれば、与えられた範囲で、私の主張の正しさを証明するまでです。

 それでは、56年4月28日から56年9月12日までの関東電化株のみの株式売買損益を計算してみます。この間、300万4千株を買い、231万6千株を売っています。つまり、68万8千株を買い越しているわけです。

 すでに売った231万6千株について、実現損益を出してみます。買い300万4千株の内、日付の早い買い分を売ったものと考えます。買いの累計が4月28日から計算して231万6千株となるのが、56年8月31日です。
 8月29日までの累計では、224万8千株の買いとなっていますので、231万6千株との差異6万8千株分を、8月31日の買い付け株の中から、任意に選びます。
 すなわち、大七の油本の3千株買、丸金の事務代の4千株買、広田の高木邦の4千株買、東和のトヤマの4千株買、大七の油本の1万株買、丸金の事務代の4万3千株買、の合計6万8千株を選び出してみます。8月29日までの224万8千株の買付代金の合計金額は、16億9145万4738円となっており、8月31日の6万8千株の買付代金の合計金額は、5837万9145円となっています。合計しますと、買株数が231万6千株となり、買付代金が17億4983万3883円となります。

 一方、4月28日から、9月12日までの231万6千株の売付代金の合計は、17億7540万1593円となります。すなわち、すでに売却した関東電化株に関しては、差し引きで2556万7710円の儲けであったわけです。

 まだ売っていない関東電化株について、次に計算いたします。8月31日の任意に選んだ6万8千株以外の残った買付株が、3万5千株残っています。これらの合計買付代金が3000万9519円です。9月1日から9月12日までの買付株数は、65万3千株です。この買付代金は、5億6360万4682円となります。
 8月31日分と合計すると、株式数は68万8千株となり、買付代金は5億9361万4201円となります。5億9361万4201円を68万8千株で割りますと、残株の手数料を含めた一株当りの買いコストがでてきます。862円81銭です。
 9月12日の関東電化株の大引けは665円ということですので、68万8千株×665円が時価評価となります。4億5752万円となりました。買い代金5億3614万4201円との差をとりますと、1億3609万4201円の評価損ということです。

 すなわち、すでに売却した231万6千株の実現利益が、2556万7710円で、まだ売っていない68万8千株の評価損が、1億3609万4201円となるわけです。通算ししますと、1億1052万649円となり、私はわずか1億円強しか損をしていないということです。
 ここでも、私の公判での供述の正しさが証明されました。公判での供述ではいつも、私に少し不利に言ってきたおりますが、「多くても1億5千万円」とした私の公判での供述は現実のデータの上から裏付けられたのです。

 以上によって、検察が動機の発生原因とした、「関東電化でソニーの預り分を全て損した」ということは、全くの虚構であることが、客観的データに照らして明らかとなりました。検察が言うように、3億円分のソニー株を預ったというのなら、そのうちの1億円強しか損をしておらず、あと少なくとも2億円弱は残っていたということになります。

 これだけ吟味しただけでも、私が1~2億円のキャッシュもしくは株券を、56年9月の関東電化株の大暴落の後でも、手許に持っていたことが証明されました。しかも、関東電化株以外では、儲けているはずです。何故、検察は55年2月から57年3月末までの株式の損益を、提出しないのでしょうか。
 損益は、コンピューターで出ているはずです。55年~57年3月までの経理状況の解明には、何故、株式売買損益を合算していないのでしょうか。関東電化株での損以上に、他の銘柄の株で儲けているので、出してこないのではないでしょうか。おそらく、そんなところでしょう。しかし、それはあまりにもキタナイやり方であり、公正ではありません。
 55年~57年3月末までの経理解明には株式損益を含めず、57年4月以降は株式損益を含めるという恣意的な方法によって作成された経理解明資料が、刑事法廷の証拠としてどのような意味があるというのでしょうか。

 使途不明金についてと同様に、帳簿上計上されないからといって、全て費消してしまったとみなすといった乱暴な方法をこの場面でも使うつもりなのでしょうか。
 1~2億円も費消すれば、必ず何らかの形跡があるものです。ところが、費消した形跡は全く見当たらないわけです。当たり前です。費消などせずに、株券の形で私が手持ちしていたからです。それを何の根拠も示さずに、勝手に費消したと決め付けるのは、不合理極まりない乱暴な考えです。実社会を知らない刑事とか検事が頭の中で勝手につくりあげた、全くの虚構としか言いようがありません。主証明の3つと合わせて考えるなら、明らかにこの56年9月でさえ、大量の株を手持ちしているわけです。

 では、何故、追証を入れなかったのか。何故、町村愛子さんのところへ行ったのか、と詰問しようというのでしょうか。
 このようなことは、実社会や生きた経済さえ知っていれば、疑問でも何でもないのです。検事や刑事は親方日の丸で、自分の出世のことだけ考えていても、給料日になれば、必ず給料がもらえるものと思っていることでしょうが、実社会はそんなに甘いものではないのです。実体験が不足しすぎています。実社会へ教育のために数年間、刑事や検事を出すという制度を設けないことには、本件のようにあまりにもお粗末な捜査、起訴、論告となってしまいます。彼らはこのような不合理で理不尽な主張を恥ずかしく思うべきです。

 では何故、追証を入れなかったのか。実社会の現状を説明しながら、合理的に説明いたします。
 警察の資料、「JBSの株券等担保による月別借入状況集計表」を見てください。まず、56年9月末をご覧ください。私は、2億7363万円分の株券を担保に入れて、2億4846万2480円しか借りていません。ところが、数ページ後の資料の数字では、3億2820万8000円借りたことになっております。明らかに食い違っています。そもそも、2億7363万円分の担保で3億2820万円を借りることなどできないのです。警察の本件公判での資料は、このように実にいいかげんなものです。

 従ってここでは2億4846万2480円借りているものとして説明を続けます。入れている担保に比べて、借りているのは約90%です。私が逆に約2500万円分、多く預けているのです。これが、2億7363万円分の株券を入れて、たとえば3億円借りていることになっていたのなら、穴をあけることになりますから、私も追加の株券を入れたか、キャッシュを返済したでしょうし、JBSも本気で追証を取りにきたことでしょう。でも、まだ2500万円分、私の方が多く預けているのです。一応建て前上、JBSはJBSの親会社である東洋ファクタリングに対するジェスチャーで、追証を私へ言ってきていたにすぎないのです。親会社からお目付け役のように派遣されているのが、朝沢さん。そして、金融のことをよく知り、株のことを知っているのが下山さんだったのです。二人は共同代表です。
 下山さんは、朝沢さんへの手前、追証を形だけ私に言ってきていたのです。真剣にマチの金融が追証を言ってきたら、その厳しさはものすごいものです。私のような株のプロには、その呼吸がわかっているのです。むろん、担保株の時価評価が、貸し付け金額を割ってきたら、JBSも必死で言ってきたでしょうし、マチの金融屋として追証を入れなければ、預かっている株券を直ちに売却したことでしょう。そういう時は私も雰囲気でわかりますので、すぐに現金でも株券でも持っていったことでしょう。
 私はこの時、JBSの腹の大きさをみてやろうとして、わざと追証を入れなかったのです。経営者として、これくらいの駆け引きは当たり前です。実際の経済、生きた経済において「追証です」と言われて、「ハイ、そうですか、すぐ入れます」と言って、すぐに入れるバカはいません。相手の感触を確かめ、「ああ、これは立場上、一応言っているだけだな」と思えば、「もう少しお待ちください。もし、担保を割るようなことがあれば、即日キャッシュで持っていきますので」とか何とか言ってお願いしておいて、適当にあしらうのです。

 JBSとの借入金と在庫担保評価額とを比較して見てください。56年9月から、57年3月までひと月でも評価額が借入金を割った月がありますか。いつも、預け入れの方が多いわけです。追証といっても、穴をあけての追証ではないのです。
 このように、こっちがまだ預け入れが多い時の追証は、「ハイ、ハイ」と言って入れるような人間は兜町には一人としていません。プロなら特にそうです。追証を入れなかったのは、私に金がなかったからではないのです。兜町の慣例としてJBSが「どうしても入れてくれ」と、もっと頼んできた時に、入れるタイミングをみていたのです。それが証拠に56年10月も11月も再び、借り入れをしているじゃないですか。本当に切羽つまった追証なら、JBSとしては返済だけさせて、貸し付けなどしなかったはずです。
 それなのに、56年10月に9869万円、11月に3815万円、新たに貸してくれているのです。56年12月なんて、見てください。JBSは1億3581万円貸し付けて、返済は9477万円しか受けていないのですよ。前月より余分に貸してくれているのです。

 これまでの説明で、この時の追証というものが、いかに口先だけの形式的なものであったかが、理解していただけたことと思います。ついでに言っておきますと、JBSへ預けた在庫株の評価が資料の2と3で食い違うのは、本件捜査が全てにわたってズサンすぎるからです。改竄などするから、こういうことになるのです。資料と調書とが捏造されているのです。改竄をしたり捏造したりするから、このようにあっちこっちで、ボロが出て矛盾するわけです。真相に基づいて資料、調書を作成していれば、ここまでボロも出なければ、矛盾もしなかったはずなのです。

 もう一点、町村愛子さんのところへ、会社がつぶれるので涙を流して金を借りに行ったという点についてですが、もう、これは「お笑い」です。
 しかし、この「お笑い」が、人間の記憶として、まさにそうであったかのように、洗脳されてしまうところに、私は当局の恐ろしいまでの洗脳術を感じ、身震いをする思いがします。冤罪の原因はこんなところにあるのでしょう。

 町村愛子さんの調書は、当時彼女がつき合っていた愛人の鈴本真人氏を逮捕しないという交換条件のもとに作成されたものです。私は幸い、客観的証明により、当時金に困っているわけがないことを証明できましたが、もし、客観的証明をすることができなかったら、逮捕しないことを条件に作成された偽りの調書や、洗脳され作り上げられた偽りの証言のもとに、裁かれていたわけです。そう考えると、調書と証言のみでの判決というものが、いかに不安定なものであるかを思い、深く考えさせられました。

 私は、関東電化株で1億円強しか損をしていないわけであり、預かっていたソニー株との差異だけでも、1~2億円残っていたのですから、何もわざわざ2千万円くらいのお金を町村愛子さんのところに借りに行く必要がないのです。しかも、あわてて深夜に行く必要など毛頭ないのです。
 JBSの金融残からも、私が2千万円をあわてて借りに行く必要がなかったことが証明されました。JBSに入れている担保と借入金の差異だけでも、提出されている資料によってひらきはありますが、56年9月末2500万~8000万円あるわけであり、株を売るだけでも、2000万円は調達できるわけです。なんで私が涙を流して、「会社がつぶれるから金を貸してくれ」と言わねばならないのか。あまりにも客観的証拠と矛盾いたします。
 そもそも、真相は、10月に行ったのではなく、9月10日前後の大暴落の最中に行ったのです。その時私は、まず①損をさせたことを謝るため、②さらに、買い増し、ナンピンするかを聞くために行ったのです。確かにこの時は、私も必死でした。会社がつぶれるから必死であるとか、お金がないから必死であるとかではありません。プロとして相場の闘いに対する必死さでした。自分の天職のプライドに対する必死さということが、本事件の検事にはわからないのでしょうか。わからないとすれば、彼らが捏造調書ばかり作り、検事という職にプライドを持っていないからでしょう。本間検事が、法廷で検察のバッジを指さし、シャーシャーとウソをついたあの姿からは、プライドのかけらすら見当たりません。当時の私の必死さは、今まさにこの場所で、「刑の量を争ってはいません。真実のもとで裁いてほしいのです。そして、それをやってもらえるのは、もう裁判所しか残っていないのです。」と叫んでいる必死さと同じレベルなのです。

 56年10月ではなく、56年9月10日前後の早朝、私は確かに愛子さんの所へ行きました。この夜は徹夜しました。10月の相場が落ち着いている時、何故、徹夜する必要がありますか。9月の暴落している最中だからこそ、必死になってあっちこっちで工作をしていたので、徹夜になったわけです。暴落の最中なので、私もプロですから厳しい顔をしていたと思います。それは認めます。おそらく、その厳しい表情を感じとして覚えていて、それにプラス、謝ったこととをゴッチャ混ぜにして、金を無心にきたと思い込んでしまったのでしょう。そうです、そのように刑事が思い込ませたのです。愛人の鈴本真人氏の証言も、全く同じレベルの創られた偽りの記憶にすぎません。

 客観的証拠や私の状況説明をよく考えて下されば、どちらが理にかなっているかは、わかっていただけると思います。10月ではなく9月であることは、暴落の最中に徹夜して、早朝(3時~4時)に行ったということでわかっていただけないでしょうか。10月にもし、金を借りに行くなら、誰が徹夜して早朝に行くでしょうか。そのようなことをしたら、誰も金なんか貸してはくれませんよ。
 株の工作で、徹夜している時だからこそ、早朝謝りも兼ね、また当日ストップ安することを事前に教えに行ったのです。そして、そのストップ安を買う腹があるかどうかを聞きに行ったのです。しかし、やはり素人の方でした。「もう、恐ろしい。」という感じでした。これがことの真相です。

 客観的証拠をもとに、よく考えてみて下さい。検事が頭の中で作った偽りのストーリーですので、随所でボロが出てくるはずです。
+関東電化株の大暴落で、損をしたのはわずか1億円強であること、
+M瀬家からの預り株分だけでも、最低1~2億円分、中江はまだ持っていること、
+JBSに中江は資産を、差し引き2500万~8000万円分余分に入れていたこと、
+急に変化が起きたわけでもない10月に徹夜して、早朝3~4時に金をあわてて借りに行くということは、余りに理不尽な調書、証言であること。
 以上の4点により、①中江は金に困っていたわけではない。②10月ではなく、9月の暴落の最中に、金を借りに町村愛子さん宅へ行ったのではなく、愛子さんの株の処理のことで行ったにすぎないことが明らかになりました。

****補助証明② 『57年11月末関東電化株を33万1千株手持ちしていたことの証明』

 56年11月末現在、関東電化株の銘柄別株式売買集計表156ページによりますと、11月までの買い越し株数(銘柄在庫)は、43万1千株となっております。
 11月末、親金融へ関東電化株が何株入っていたかを調べてみますと、合同信用に1万千株入っていますが、JBSへは、他の銘柄の株式も含めて38万2千株入れて、1億4383万2000円借りていたとしかわかっていません。
 仮にほとんどが関東電化株であったとして、18万6千株とします。ただし、18万6千株ということはあり得ないわけです。もっと少ないはずです。というのは、38万2千株入れて、1億4383万2000円借りていますので、差し引きの20万株で2000万円借りていることとなり、残りの差し入れ株の平均株価が、100円となってしまうので、あり得ないことなのです。
 ここでは私の不利に考えて、仮にJBSから関東電化株を18万6千株入れているとします。すると、合同信用の1万4千株と足して、20万株となります。
 ところが、先程見ました、56年11月までの取引口座での買い越しは、43万千株ですので、差し引きの23万1千株は、私が手に持っていたということになります。
 ここでも、私が、11月末関東電化株を最低でも23万1千株、どこにも担保に入れず手に持っていたことが証明されます。23万株といいますと、当時の時価で約1億5千万円です。私が金に困るどころか、個人財産を株券という形で大量に持っていたことが、ここでも客観的に証明されたわけです。

****補助証明③ 『57年3月末関東電化株を58万1千株手持ちしていたことの証明』

 補助証明②で、56年11月末、親金融に入っていた関東電化の株数は、多めに見ても、20万株であることが、はっきりしました。としますと、57年3月末、警視庁は親金融に10万6千株しかなかったと言っているわけですから、私は物理的に9万4千株しか、56年12月~57年3月末までに売れないことになります。
 ところが、銘柄別株式売買集計表の56年11月末の銘柄在庫欄を見ますと、43万1千株となっており、57年3月末の銘柄在庫は、マイナス24万5千株となっております。ということは、67万5千株も56年12月から57年3月までの4ヶ月で、私が売り越していたということです。
 9万4千株しか物理的に売れない株を、どうして67万5千株も現実に売れたのでしょうか。それを合理的に説明するためには、私自身が56年11月末、最低でも58万1千株を手持ちしていたという、事実によるしかありません。表4を参考にして下さい。

 ここでも検察の虚構は崩れ去りました。彼らは、苦肉の策として、自らの今までの主張を放り投げ、自己矛盾を覚悟の上で、口座が抜けていたとか、場外クロスで買ったかいう、マヌけた反論をしてくるといけませんので、先に言っておきますが、口座が抜けたりしていても、場外クロスで買ったとしても、その分、私は手持ち株のかわりにキャッシュを持っていたことになりますので、今の論点には何ら関係はないのです。  
 私が株券で手持ちしていようが、キャッシュで手持ちしていようが、個人財産が大量にあったとことには違いはないのです。
 また、口座が抜けている場合は、現実に抜けていた東和証券の中江滋樹の口座を見ていただけばわかるように、買いも売りもほぼ、同金額抜けるのです。と申しますのも、公判でも供述しましたように、片商いというのが大蔵通達で禁止されているからです。買い一方、売り一方という注文は、してはいけないということです。ですから、買ったら、それに相当する売りを一定期間内にしていくわけです。
 すなわち、買いが抜けたら、売りも抜けるということです。売買損益は別としてです。売買損益のところで、これは詳しく説明します。口座が抜けていた場合、買いと売りがほぼ同金額になるので、株券の量と金額とはほぼ変わりはなく、売買代金を問題にする時そんなに影響はないのですが、売買損益には大きく影響するということです。

 以上により、補助証明③では、関東電化株の11月末の親金融残と、その後4ヶ月に現実に売り越した株数と、57年3月末、親金融に残っていた株数の比較により、58万1千株の関東電化株をどこにも担保に入れず、私が手持ちしていたことを証明したわけです。58万1千株といいますと、時価700円として、約4億円です。

****補助証明④ 『検察は計算をするに際して故意に口座を抜いていることの証明』

 この証明に関しては、警察が全ての資料を出してくれませんので、現段階では全部の証明をすることはできません。将来、しかるべき証拠物を還付してもらえばできることです。
 56年10月から、57年3月までの間に買い付けられていない株が、売却されたり、金融に預け入れられたりしています。57年4月以降ですが、買い付けられていない株が売却されている例は、資料がありますので示します。
 57年4月18日、立川が1万8千株、丸金証券の出口名義の口座で売却されています。この株券は3月末に親金融にありませんでしたし、4月以降買い付けられてもいませんし、また、顧客よりの入庫もありません。ということは、私が手持ちしていたと考えるか、あるいは口座が抜けていると考えるしかありません。金額的に360万円くらいですので、この場合は口座が抜けていると考えてもよいでしょう。むろん、大きな金額が抜けていても、口座が抜けていると考えてよいのですが、その場合には、それだけのキャッシュを私が別に持っていたこととなり、私が個人資産を大量に持っていた証明をくつがえすことにはならないということです。

 取引口座で買い付けられていない株が親金融に預けられたり、取引口座で買い付けられた株が、親金融にもその他のどこにも入っていない例もたくさんあります。57年3月以前については、残念ながら当局が全ての資料を出してくれませんので摘示できません。ただ、JBSの東証信の口座の資料が、57年3月24日よりありますので、これで説明いたします。 

3月24日、 帝石 1000株 アラビア石油 1300株
松島興産 1000株 三菱銀行 2000株
日鉱 1000株 伊藤忠 3000株
関東電化 13000株 椿本チェーン 20000株
不二家 8000株 ミノルタ 6000株

が、JBSの東証信の口座へ担保として入庫されておりますので、これらの株券が果たして買い付けられているのかどうかを調べてみます。

 日付順の株式売買集計表を見てください。株の受渡の買いの場合は、立会時で4日~6日目に受け渡しがされます。今、3月24日にJBSへこれらの株を持ち込んだことははっきりしています。
 3月24日から逆算すると、昭和57年のカレンダーによれば、3月16日から3月18日の間に、買い約定がなされていなければなりません。57年3月16日の買いは、116ページに載っています。
 3月16日から3月18日までの間、関東電化以外、何も買っていません。念のため、3月15日も見てみますが、関東電化を買っているだけです。3月13日は大和工を1千株買っているだけ、3月11日は高砂香料を3万株買っているだけです。3月19日も23日も何も買っていません。ということは、これらの銘柄は、どこで買い付けて、JBSへ57年3月24日に入れたというのでしょうか。3月29日にもやはり入庫となっています。ここで入庫となっているトヨタ4千株、松下9千株も買い付けた跡がありません。当局はこれについてどのように説明するつもりでしょうか。

 私が以前から手持ちしていた株を親金融へ入れたということです。あるいは、口座が抜けているということです。そうとしか、物理的に考えられないわけです。
 証券金融を始める前のことですから、顧客よりの預かりでもありません。口座が抜けているか、私が以前から持っていたか、どちらかです。私はどちらでも結構です。もはや、他の証明で十分、私が57年金融を始める前に、大量の株を手許に保有していたことは明らかとなっているからです。もっと示せと言われれば、山のようにあります。買い付けてあるが、親金融へ入れず、中江が手持ちしたと考えられる例は、たとえば、57年4月5日に、買い付けられている三井金属2万株がそうです。この2万株は、親金融へも預けられず、売却もされていません。
 4月19日に2万株売却されていますが、これは4月16日に2万株買っている分です。4月26日に、JBSの古賀の口座へ5万株三井金属が預け入れられておりますが、それは、4月22日に買い付けた分です。すると、4月5日に買い付けた三井金属の2万株はどこへ行ったというのでしょうか。
 私が手持ちして持っていたと考えるか、口座が抜けていると考えるしかないはずです。あるいは、抜けている口座で売却されたということです。どちらで考えていただいても結構です。数理的、物理的に大量の手持ちがあることは、すでに主証明で証明していますので、口座が抜けていると、とっていただいても結構です。

 論告で、検察は何をとち狂ったのかしれませんが、「最初一ヶ月近くはつないでいた」という現実を、今度は「取りついでいなかった」と正反対のことを主張してきたわけです。自分で自分の首を絞めるとはこのことです。
 口座が抜けていることを自分で証明したのです。最初の一ヶ月近くは間違いなく、取りついでいました。ところが、その根跡がもしないのなら、それはまさに口座が抜けている証拠なのです。先程から、いくつかの例をこの補助証明④でもあげてきましたように、明らかに口座が抜けているのです。特捜の検事は、できるだけ私に不利に調書を捏造しようとしていたのですから、もし、買っていないとなれば、「最初から、取りついでいない」という調書を作成したはずです。それができなかったのは、当時の元社員数人に聞いて確かめ、「1~2ヶ月は間違いなく取りついでいた」という確実な話があったからでしょう。
 さらにいえば、私に教えない、客観的資料でもあったのでしょう。そうじゃなければ、鬼の首をとったように、「最初から、取りついでいない」という調書を作成したはずです。

 特捜の検事も、論告で丹波検事がつくってきたような比較表を持ってきました。しかし、急にひっこめたのです。何故かは私にはわかりません。おそらく、彼らに不利になる客観的資料が出てきたからでしょう。それをわざわざ論告で、また、丹波検事はやってきたのです。
 検察は自分達に不利な資料はおよそ、出してくれるはずがありませんので、彼らの出した資料でも、口座が抜けている証明をこれだけできるということです。もっと必要であるならば、時間さえかければいくらでも作成することができます。57年3月、4月をちょっと見るだけでも、これだけあるのですから、57年5月以降を見れば、もっと口座が抜けていることを、客観的に証明できることでしょう。
 あの論告は、法律には素人の私でも、検事がネボケながら作成したとしか思えないシロモノです。私が愛人と共に海外へ行ったなどと、どこにそんな話があったのでしょうか。急にデッチ上げられては困ります。公判中、居眠りをしていた検事ですので、論告もきっと居眠りしながら作成したのでしょう。

 ついでに抜けていると思われる口座を2、3あげておきます。
 外国の証券会社ビッカーズダコスタ、丸金証券、山田和生扱いの口座、勧業角丸の青木建設を買った口座、その他、資料があれば、もっと思い出せます。自由にさえなれば、いくらでもあげることができるのです。

****補助証明⑤ 『手持ちのソニー株の株数の算定にもとづく証明』

 57年4月24日、私は9千株のソニー株を買い、4月30日に5千株を町村家に返済しています。余った4千株は、5月4日に市場で売却しています。私はこの時、町村さんに2万株とも、いざとなれば返済つもりでいました。それで、これは覚えていませんので推測ですが、1万1千株を手持ちしていて、残りの足りない分を9千株、証券会社で買いつけたのだと思います。手持ちしていた株数については忘れましたが、当時、いざとなれば、2万株とも返してしまおうと思っていたことは覚えています。検察の資料から逆算すると、1万1千株持っていたことになるのです。
 私は高輪のマンションに置いておいた手持ち株、最低5億円相当分の中に、推定で1万1千株のソニー株を持っていたことになるのです。それで、おばあさん(町村貞子)へ、いざとなれば、2万株いつでも返せるようにするため、残り9千株を証券会社で買い付けたのでしょう。ところが、おばあさんとの交渉の結果、当面5千株しか、返す必要がなくなったので、5千株だけおばあさんに返し、4千株は売却したものと思われます。この部分はあくまで推測です。

 この1万1千株については、私が持っていたことを証明することは、客観的には残念ながらできません。しかし、その後のソニー株の動きにより、最低でも2千株は保有していたことは客観的に証明できます。

 順次、ソニー株の移動を見ていきます。4月12日に買ったソニー株の9千株は、5千株は町村貞子さんへ返済し、4千株は5月4日売却しています。
 表5を見ながら、読んでいただくとわかりやすいでしょう。6月3日、町村家へ2千株のソニー株を返済しています。ところが、この時点でみますと、ソニー株は5月25日に1千株しか買い付けられておりません。ところがまぎれもなく、町村家へ2千株渡っている。これは手持ち株の中から、1千株を使ったことを意味します。7月5日も、町村家へ2千株返済しているのに、買い付けは6月26日の1千株しかないわけです。この時も、手持ちの1千株を返済にあてたとしか、物理的に考えられないのです。合計2千株手持ちしていたことが、これで証明できます。57年東証信を始めて以来、ソニー株の入庫は57年中には1株もありません。ということは、物理的に私が手持ちしていた株を、2000株返済にあてたとしか考えられないわけです。

 その後は、表5によりピッタリと合っているのです。ただ、9月4日の買い付け1千株だけは余りますので、この1千株は、手持ちにしたと考えられます。顧客への返済に使ったとも考えられますので、東証信、東クレを調べてみましたが、57年には両社ともソニー株の入出庫はないのです。
 ソニー株の移動をみて明確に言えることは、57年4月、5月に2千株のソニー株を、最低でも手持ちしていたということです。ついでながら、56年10月に町村愛子口座で売却された4650株についても、私は売却代金などもらっていません。タカノビルで受け取り、町村愛子の愛人であった鈴本真人氏にそのほとんどを渡しました。その内から私がもらったのは、鈴本真人氏が銀座で私の名で飲んだ、飲み代だけであります。
 515株については、私が受け取り、最後まで保有していたと思います。ソニー株式会社の調書からも明らかです。515株は、売却がずっとされていません。56年10月までには、端株は65株しか売られていないのです。

 私は57年4月22日に、何故9千株という端数を買い付けたのでしょうか。返済のために買おうとするなら、5千株とか1万株とか、ピッタリと買うはずです。それが人間の心理です。それなのに、9千株という端数を買い付けたのは、手持ちで何株か持っていたからとしか考えられません。客観的に最低2千株持っていることが明らかになったわけですが、あるいは6千株か1万1千株持っていたのではないでしょうか。

****補助証明⑥ 『合同信用の株券の移動にもとづく証明』

 合同信用の56年10月よりの株券の移動を精査しての、手持ち株を持っていたことの証明です。
 警視庁作成の合同信用㈱貸付状況一覧表、的山規男名義(中江滋樹)口座と、日付順株式売買集計表を見比べてみますと、56年10月9日、三菱金属が1万2千株、合同信用へ預け入れられているのですが、証券会社の口座には、三菱金属を買い付けた形跡がないのです。これは私が以前より手持ちしていた1万2千株の三菱金属株を入庫したことを意味します。
 11月5日、日本警備保障の株が1千株差し入れられていますが、これまた買いつけた跡が見当たりません。12月26日、京都ダイガスト8千株を預け入れていますが、これに見合う買い付けは、12月22日の2千株しかありません。12月18日の買い分は、22日に売ってしまっています。差し引きの6千株は私が手持ちしていた京都ダイガストを差し入れたということです。
 57年1月26日、東京鉄鋼株は1月には全く買いつけられていません。ということは、手持ち株から7千株出してきて、合同信用に預けたことになります。

 以上により、親証券金融へ預け入れられている株が、必ずしも、警視庁調べの証券会社の口座で買い付けられ、自動的に親金融へ入ったのではないことが明らかになりました。

****補助証明⑦ 『預金通帳の残高による証明』

 私は公判において裁判長に、56年~57年の初め頃「妻佐和子でも、数千万円は持っていたでしょう」と言いました。補助証明⑦では、妻がたまたま残していた通帳から、私が57年3月以前金に困っていなかったことを証明いたします。

 私は公判において一言のウソもついておりません。そういった意味でも、私は堂々と約一年半の公判を闘ってきました。今回電卓も差し入れていただき、山根公認会計士とも会わせていただきました。そして、数字の上から客観的に検察のトリックを見破り私の公判廷における供述の正しさを証明できました。裁判長に感謝すると共に、私がウソを言っていなかったことを計数の上からばかりでなく、通帳という証拠物により証明できることを幸せに思います。裁判長とお約束したことは全て守ったつもりです。通帳を示すことができたことで一つの約束を守ることができ、うれしく思っています。それでは、一つ一つの通帳を見ていくことにいたします。

 富士銀行総合口座141-746577、中江佐和子の通帳を見てください。これは妻の個人口座です。昭和53年12月12日の残が2054万円あります。昭和53年といいますと、まだ私が24歳の時であり、その時でさえ妻のヘソクリの口座に2054万円もあったということです。

 次に、永代信用組合の023-530346016通帳の57年2月26日の残高を見てください。証券金融を始める前に、妻でさえ2202万7747万円の銀行預金を永代信用組合だけで持っていたということです。私の公判廷での供述を裏付けるのに十分と思います。
 同じ口座の2つ前の通帳を見てください。私が町村愛子さんの所へ深夜金を借りに行ったという10月16日には1005万7560円の残高があります。10月27日には437万6952円あります。同じ口座番号の次の通帳を見てみますと、11月14日に1041万3052円あります。57年1月29日には、1157万2267円あります。妻が偶然残しておいた通帳だけでもこれだけの預金を妻でさえ持っていたのです。

 次に、023-530346-012の定期積金通帳の中江佐和子の口座を見てください。55年9月より、毎月30万円ずつ定期積金をしております。この金額が、問題となっている56年10月に約400万円あったのです。また、金融を始める前の57年3月には、約600万円あったわけです。とすると、妻だけで57年3月末には、先の2207万円余りの預金を加えれば約2800万円の金を永代信用組合の預金だけでも持っていたということです。
 なんで、私がたかが2000万円のことで56年10月徹夜してまで、早朝町村愛子さんの所へ泣いて借りに行かなければならないというのでしょうか。こんなバカげたことが論じられているかと思うと情けなくなってきます。他の証明と考え合わせていただくなら、いかに調書が捏造されたものであり、証言というものが創られたものであるかがわかってもらえたことと思います。

 次に、中江滋樹事務所の永代信用組合の通帳を見てください。023-530420010の口座番号の通帳です。これの昭和56年12月3日の残を見てください。2900万円あります。(なぜ彼らは、57年月以前は私の個人通帳分を合算しないのでしょうか。)これをみても、私が金に困っていなかったことはわかっていただけることと思います。
 金融に頭金として数千万円入っていて、それとは別に銀行の一つの口座だけでも2900万円のキャッシュを持っていたわけです。JBSの追証に関しては、兜町の慣例として払わなかったのだということがわかってもらえたことと思います。
 私は今回の公判によって、裁判における調書とか証言の不確実性を思い知らされ恐ろしくなりました。幸い私は、計数的かつ客観的に、私の公判での供述の正しさを証明できましたし、また、ここでは通帳によって証明できました。しかし、もしこれらができなかったとしたら、裁判長はおそらく検察のトリックを信用され、調書を信用され、証言を信用されていたことでしょう。そう考えますと身震いがいたします。
 とにかく、私は客観的にこれで全てにおいて、完璧に私の主張を証明できました。裁判長のはからいにお礼を申し上げるとともに神に感謝いたします。

(つづく)

001 相場師中江滋樹の弁明-目次等

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