原発とは何か?-⑥

 東京電力の経営は、3.11の事故が発生した瞬間に、破綻していた、-これが前回の要旨である。一回の原発事故で会社が吹っ飛んだのである。



 エネルギー政策は一国の政策の根幹をなすものだ。中でも電力はエネルギー政策の中核をなすものである。

 その電力を事実上独占的に供給してきたのが電力会社であり、そのシンボル的な存在が東京電力だ。

 その経営が破綻していた。電力を安定的に供給するために起ってはいけないことが現実に起ったのである。



 結果論として言っているのではない。これまで東京電力は、原発安全神話という作り話を自分達で勝手に創り上げて、原発施設の安全性についての対策を怠ったばかりか、企業財務上の手当てをほとんどしてこなかった。法律によって保護されているために、する必要がなかったからだ。原発安全神話は破綻すべくして破綻したということだ。

 原子炉の事故によって損害が生じる場合には、特別法(原子力損害の賠償に関する法律、昭和36年6月17日法律第147号。以下、賠償法という)によって、原子力事業者(3.11事故の場合は、東京電力)に無過失責任が課せられている(賠償法、第三条第一項)。損害の発生について、故意とか過失がなくても損害責任を負うとするものだ。極めて厳しい責任が電力会社に課せられているかに見えるが、これはタテマエにすぎない。
 これには例外があって、この例外に該当する場合には免責とする定めがあるからだ(賠償法第3条第一項但し書)。

「異常に巨大な天災地変」、又は「社会的動乱」

によって損害が生じた場合がその例外である。
 これら2つの例外に該当しない場合のみ、電力会社に無過失の損害賠償責任があるのであるが、これも無制限なものではない。
 まず、原子炉の事故に備えて、損害保険会社との間で保険契約(原子力損害賠償責任保険契約)を結ぶことが義務付けられている。一事業所当り1,200億円(当初は50億円、その後順次改訂されて1,200億円に)を上限とするものだ(賠償法第6条、第7条)。
 このような保険契約をした上で、損害額がこの保険契約によって付保されている金額を超え、かつ、電力会社の財力でまかなえない場合には、政府が面倒をみることになっている(賠償法第16条)。つまり、原子炉の事故によっていくら債務超過に陥ろうとも、決して倒産しない仕組みになっている。至れり尽くせりである。
 「被害者の保護」(賠償法第1条)とか、「被災者の救助及び被害の拡大の防止」(賠償法第17条)といった大義名分がもっともらしく掲げられているが、何のことはない、電力会社を救済するための法律だ。この特別法、同時に制定された今一つの特別法(原子力損害賠償補償契約に関する法律、昭和36年6月17日、法律第148号。以下、賠償補償法という)と一対をなすものだ。賠償法と賠償補償法とは、万一原発事故が起った場合に電力会社を救済するための、いわば双子の法律である。

 要するに、原発を運営する電力会社は、「異常に巨大な天災地変」、あるいは「社会的動乱」による場合はもちろんのこと、そうでない場合であっても、一事業所について付保額1,200億円以内の保険契約をし、かつ、政府との間で原子力損害賠償保障契約(賠償法第10条、賠償補償法第2条)さえ結んでおけばいいのである。つまり、僅かばかりの保険料・補償料さえ払っておけば、どのような原発事故が発生しても、財務的には心配しなくともよいということだ。これら2つの特別法によって、電力会社は原発事故による損害賠償について、事実上免責されているからだ。

 3.11事故によって事実上大幅な債務超過に陥り、経営が破綻しているにも拘らず、東京電力首脳陣がTVカメラの前でふてぶてしいほど悠然と構えていた背景には、これら2つの法律があったからである。つまり、法の定めによって、親方日の丸が救ってくれるのは当然のことであり、損害賠償に関しては他人事であると考えていたのであろう。
 現に、この8月3日、菅下ろしに明け暮れているネジレ国会の最中でも与野党からさしたる反対の声もでないままに、原子力損害賠償支援機構法がスンナリと成立した。東京電力救済法である。

 以上の検討の結果明らかになったことは、東京電力経営陣に原発事故による経営責任、中でも損害賠償責任が事実上免責されていたことだ。事故が起る以前から、損害賠償については一切の経営責任が問われない仕組みになっていたのである。
 万一の事故が発生しても事実上会社に損害賠償責任がなく、経営者に経営責任がないとなれば会社経営者としては気楽なことである。原発を運営する上での緊張感など出てくるはずがない。経営者にとっては、原発事故が起ろうが起るまいがどうでもいいことだ。典型的な無責任経営だ。驚いたことに、無責任経営が法律上許されていたのである。
 原発事故に関して緊張感が欠落した無責任経営、-このたびの大事故が、天災によるものではなく、人災によるものであるとする最大の理由だ。
 このような会社と経営者とが長年の間原発を運営してきたのである。エネルギー供給の安定性を声高に唱えてはみたものの、肝腎の原発の運営主体がこのような無責任体制にドップリと漬かっているようでは、この大義名分は空念仏として空回りするだけである。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“原発を育てた親はほっかぶり” -平塚、事大錯誤。

(毎日新聞、平成23年8月4日付、仲畑流万能川柳より)

(「原発安全神話のウソなんて、反省しても仕方ない」と言い放ち、開き直った御仁がいる。細田博之元官房長官だ。この人物、島根一区選出の代議士であるが、親子二代にわたって島根に原発を持ち込んだ張本人である。)

「政治家の議論ムダ」 細田元官房長官、エネ政策めぐり
http://www.asahi.com/politics/update/0805/TKY201108050474.html
「議論は無駄」という国会議員
http://www.agara.co.jp/modules/colum/article.php?storyid=215466

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