松江の庭-4

 傲岸不遜な山本隆志氏の圧力に対して、私は次のように問い質した、-
「このまま放っておいたら宍道湖は淡水化され、ヘドロの湖になってしまう。目の前の大橋川も同様にヘドロの川に変貌する。そうなったらどうするのか、私達が誇りにしている水の都が悪臭漂う汚水の街に変ってしまったらどうするのか。」
 山本氏は、私のつきつめた問いかけに対して次のように言い放った、-「メシが食えなくなったら、どんなに良い環境が残ろうとも意味がない。経済さえ良くなれば、宍道湖も大橋川もアオコの繁殖するヘドロの湖と川に変っても一向にかまわない。」

山本隆志という人物は、昔も今も表向きは地域のオピニオンリーダーを自認しており、このような極論を対外的に口にすることはないはずだ。ことに、淡水化事業が中止になったのを見届けてからは、あたかも自分が淡水化反対運動の先鞭を切ったかのような嘘を平気で喋っている人物である。バリバリの共産主義者が第二次大戦が終るや、手の平を返したように反共主義者に転向したのと似ている。カメレオンである。私と2人だけのプライベートな会話で、しかも、二人とも激昂しながらの話し合いであったために、思わず本音が漏れたのであろう。
 山本隆志氏が、「山小舎」の中二階で、「宍道湖の水なんて汚れてもかまわない」と言い放った一言は、30年近く経過した現在でも彼の脂ぎった表情とともに私の脳裡に鮮明に焼きついている。
 それは、国民の血税に群がり、地域を食いものにしながら生きてきた島根の自民党の姿そのものであった。

 山本氏は追い打ちをかけるように私に畳みかけた。

「急に松江に帰ってきて、地元の事情もよく分からないのに軽々しく淡水化反対なんて言わないで欲しい。自分達は地元で商売をしており、無責任な評論家のようなことを言われたら迷惑千万だ。」

 山本氏は私の家柄を侮辱しただけではもの足りないとでも思ったのか、私を無責任な評論家扱いし、蔑(さげす)んだ。会計士という職業に対する侮辱である。
 冷静に考えたらたしかに山本氏の言う通りである。私は3才のときに戦争で父を亡くしており、父親の記憶は全くない。母が、駄菓子、雑貨類、たばこなどを売ったり、時には貸本屋をやったり、焼き芋を焼いて一家の糊口をしのいでいた。私は小学校のときから商店の手伝いをしたり、中学・高校のときには、新聞配達、集金、ヤクルト配達、家庭教師などのアルバイトをしては生活費を稼いだ。小・中・高の修学旅行に一度も行くことができなかったのもお金が用意できなかったからである。
 また、当時の私は40才前、松江に帰って会計事務所を開設してから日が浅い。会計士として十分な仕事があるわけではなかったし、自宅と事務所だけは手に入れていたものの、全額借入金に頼っている状態で、財産状況はプラスマイナス・ゼロ、もしくはマイナスであった。山本氏から風来坊のように言われ、無責任な評論家扱いされても無理からぬ状態であったのは事実である。
 『淡水化の中止など山根にできるものか』と投げ付けられた侮蔑的な売り言葉に対して、『できるかできないか、成りゆきを見ているがよい』と、買い言葉で応じ、山本隆志氏とはケンカ別れとなった。

 島根経済同友会が淡水化事業慎重論を打ち出してほどなく、私の担当は「地域問題委員会」から「教育問題委員会」に変更になった。口封じである。
 住民運動からの誘いがあったのはちょうどこの時である。
 私達は、「宍道湖の水を守る会」を結成し、私は5人の代表世話人の一人として名を連ねた。昭和57年6月のことだ。保守・革新を問わず、政治色を一切排し、「宍道湖の水を守る」という一点に絞って運動を進めていくとする規約が定められた。2年後、島根大学の保母武彦教授を中核として、「中海・宍道湖の淡水化に反対する住民団体連絡会」(17団体)が結成されるに至り、住民運動の流れは地域全体を巻き込むまでに盛り上がり、結果として農林省の淡水化事業は中断せざるを得ない状況に追い込まれた。住民運動によって大型公共事業が中止となった、日本で初めてのケースとされている。

(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。

“クロマグロなくても我が家困りゃせぬ” -茨城、芋慈円奴。

 

(毎日新聞、平成22年5月21日付、仲畑流万能川柳より)

(サバ、イワシ、アジにハマチで十分だ。十分どころではない。マグロのトロとサバの刺し身を眼の前に出されたら、ためらうことなくサバの刺し身を選ぶ私。)

Loading