乾隆帝の壺-4

 松平不昧公。乾隆帝とほぼ同じ頃の出雲松江藩松平家7代目の殿様である。
松平治郷(はるさと)。江戸後期の出雲松江藩主。茶人。号は不昧(ふまい)・一々斎・一閑子。茶道に通じ石州流不昧流を創め、また禅道・書画・和歌にも通じた。1751年生-1818年没。-岩波、広辞苑。
 松江藩の経済と文化のレベルを押し上げた風流の殿様、松平治郷公は、今なお松江市民に不昧公あるいは不昧さんの愛称で慕われている。日本文化の粋ともいうべき茶道を極めただけでなく、茶の湯を松江に定着させ、茶の湯に欠かせない和菓子を磨き上げた。茶道具の収集に余念がなく、現在は大半が散逸したものの、集められた800余点の品は「雲州蔵帳」に記録された。

 乾隆帝の人生は1711年から1799年までの88年間。不昧公が生まれたのは乾隆帝40才の時であり、不昧公が48才の時に乾隆帝が亡くなっている。つまり、この二人は48年の間、時代を共有していることになる。
 乾隆帝は世界的な大帝国清の天子であるのに対して、不昧公は極東の小国日本の、しかも雲州松江藩という親藩ながら小藩の藩主である。単純な比較など勿論できるはずがない。このことを承知の上で敢えてこの2人の為政者を比べてみることにする。

 まず2人の共通点は何か。
 第一に思い浮ぶのは、その時代の為政者として共に名君の誉れが高いことだ。殖産興業に力を注ぎ、国力の増進を図っただけでなく、学問芸術を自ら修め、同時に為政者として一般にも奨励し、国内の文化水準の向上に資するところが大であった。
 実は、ごく最近までの松平不昧公の評価は必ずしも芳しいものではなかった。風流の殿様でありえたのは、自分の道楽のために松江藩の公金を勝手に使うことができたからではないか。藩内の民からの搾取によって、勝手気ままな生活を送っていたのではないか、といった厳しい見方が一般に流布していたのである。
 ところが近年、松平不昧公の評価が大きく変ってきた。埋もれていた歴史資料(『松江藩出入捷覧(でいりしょうらん)』)の解読が進み、松江藩の財政収支の実態と不昧公の生活の一端が明らかになってきたからだ。
 松江松平家15代当主である松平直寿(なおとし)氏は、

『松江藩の『出入捷覧』は、明和四(1767)年から、天保十一(1840)年までの74年間にわたる藩の収支を記録した文書で、江戸時代の藩財政を正しく理解する上で希有の-おそらくは全国唯一の-生きた資料である。』

と、この歴史資料の紹介をした上で、

『戦後の一時期、いわゆる進歩的な学者や歴史に不得手な学者はご多聞にもれず、藩権力と百姓との闘争史としてだけ社会をとらえたり、恣意的に資料を引用したりしたが、残念ながら当時はそれに反撃する資料もなく、最近まで松江藩の歴史は悲惨な歴史として描かれてきた。』

と、松平家を継ぐ当主としての、もどかしくも悔しい思いを吐露している。
 更に同氏は、続けて、

『この資料は、…内容から見て、不昧が襲封した年に始まり、その年に家老の朝日丹波が大阪の商人から借りた50万両の負債を年々返済し続け、三代74年かかって、ことごとく元本を完済し終った』

ことを示しているとし、

『これ自体が当時としては誠に希有のことで、当時の各藩は民間からの借金をほとんど踏み倒していて、正直に返済したのは松江藩だけといってよい。』

と述べ、これまでの思い込みによる誤った歴史認識をこの歴史資料にもとづいて正し、不昧公の名誉回復につとめている。(『松江藩の時代』乾隆明編著所収、松平直寿「出入捷覧」)

 近年、松江だけでなく、全国的に歴史の見直し、とくに江戸時代の見直しが進んでいる。
 私達が学生時代に教わった江戸時代は、民百姓が武士階級からほしいままに搾取され、食うや食わずの生活を余儀なくされていた、暗い封建社会の時代であった。士農工商の身分制度のもとで、各種の自由が著しく制限されている息苦しい社会が江戸開府以来延々と260年も続いた、というものであった。
 しかし、各地に残っているおびただしい量の古文書等の歴史資料の解読が進むにつれて、これまでの暗いイメージが払拭され、活々とした一般大衆の姿が浮き彫りになってきた。松江藩に関していえば、支配階級側の生の資料である松江藩の『出入捷覧』によって、従来苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を極めたとされていた年貢の徴収が、実際にはそれほどではなかったこと、松平家の奥向きの出費も藩全体の費用の7%ほどであり、必ずしも過大であるとは言えないことが明らかにされている。

(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。

“寒い日は 一緒に寝ても いいかなと” -東京、椋鳥。

(毎日新聞、平成22年1月7日付、仲畑流万能川柳より)

(猫くらいが無難かなと。)

Loading