100年に1度のチャンス -26

 GDPにせよ、経済成長率にせよ、その実態を直視し、かなりいいかげんなシロモノであることが分かれば、これらの数値に拘(こだわ)るのが空しく思えてきます。だとすれば原点に立ち帰って、経済とは何か、人々の暮し向きを豊かにする経済とは何か、改めて問い直す必要があるかもしれません。あるいは、国家社会の目標とすべき経済のあり方とは何か、改めて問い直すことが必要であると言ってもいいでしょう。このような根本的な問いかけを喚起する大きなキッカケを私に与えてくれたのが、他ならぬこのたびの世界的な規模での経済危機でした。

 嘉永6年(1853年)ペリーが浦賀にやってきてから150年。鎖国から開国へと大きな方向転換を図って、欧米諸国の仲間入りを果すために日本は涙ぐましいばかりの努力をしてきました。断髪をして洋服に着替え鹿鳴館でにわか仕込みのダンスを踊った日本人は、欧米諸国からはサル真似と揶揄されたり、モノづくりについても欧米のコピーづくりに励んではエコノミックアニマルと蔑(さげす)まれたりしながらも、只管(ひたすら)稼ぐことに邁進してきました。

 その間、私達はたしかに多くのものを欧米諸国から学んだのは事実です。学術、文化、モノづくりなど、とりわけドイツ、イギリス、フランス、アメリカから多くのことを教わったのはまぎれもない事実です。
 しかし、教わったことは良いことばかりではありませんでした。思想を学び技術を習得する過程で、私達日本人が古くから大切にしてきたモノの考え方とは相いれない考え方が蔓延するようになってきたのです。

 古来日本人は、自然と共に生活し、異なった考え方を持った人達、あるいは異なった宗教を信奉する人達ともうまく折り合いをつけながら国家社会を形成してきました。ところが、開国から50年ほどたってから様子が変ってきました。日本の国力、なかでも軍事力が強化されるに従って外国へと進出して領土を拡大する動きが加速され、日清、日露の戦争をひき起しています。その後の第一次世界大戦でも、当事者としてますます侵略的な傾向を強めていき、その挙句、第二次世界大戦の惨敗によって挫折するに至っています。
 第二次大戦後は敗戦国として、憲法の規定によって軍事力が剥奪されたことから、日本の国力の増強は専ら経済力の強化に向けられてきた感があります。戦後の焼け野原のような状態から、世界の奇跡と言われたほど、日本経済は驚異的な高度成長を達成し、その結果、経済力については世界のトップレベルにまで達しました。
 ところが、ここでも暴走が始まりました。かつての軍事力を背景にした日本が、大東亜共栄圏の建設というもっともらしい大義名分をもって諸外国に進出(というより侵略)したように、経済力を背景にした日本は、アメリカの尻馬に乗って新自由主義とかグローバリゼーションとかいういかがわしいスローガンのもとに世界戦略を展開し、欧米のインチキの手助けをして、結果的に少なからぬ傷を負うことになりました。これが、このたびの金融危機に端を発する世界的な大混乱の実相です。

 軍事力による暴走も経済力による暴走も、共に他者の迷惑を顧みることなく、自分達さえよければ何をしても構わないといった驕りたかぶった考え方にもとづいているようです。自分達以外の者を一段と低い存在とみなす、支配者の論理です。もちろん、明らかに間違っています。このような考え方は、決して日本古来からのものではありません。開国以来、欧米から滲み込んできた悪しき考え方の一つと言えるでしょう。覇権主義、あるいは収奪の思想と言っていいかもしれません。ことに、軍事力が充実してきた100年ほど前からこの悪しき収奪の思想がより顕著になってきたようです。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“極東と 丸い地球で 誰が決め” -武蔵野、竹とんぼ。

(毎日新聞、平成21年4月5日付、仲畑流万能川柳より)

(アメリカの身勝手な基準を、グローバル・スタンダードと言うが如し。かつての植民地政策に見られる侵略的覇権主義の名残り。)

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