冤罪の構図 -17

 冤罪とはつまるところ、もともと犯罪ではないことをあたかも犯罪であるかのように偽って、無実の人を犯罪人に仕立てることです。中には検察官が真実罪を犯したと心から信じ込んでいるケースがあるかもしれませんが、私の体験を通して言えば、それらは例外的なものであり、大半が冤罪であることを承知の上で起訴に持ち込んでいるのではないか、結果的にたまたま冤罪であったというのではなく、はじめから冤罪を知悉(ちしつ)した上で敢えて断罪しているのではないか、このように推断してもいいようです。

 私の冤罪事件では、検察当局は事実を捏造(ねつぞう)しただけでなく、証拠をも捏造しました。つまり、架空の犯罪を証明するために、敢えてインチキ証拠を用意したということです。脅したり騙したりして関係者を嘘の自白に追い込み、偽りの供述調書を刑事法廷に持ち出しただけでなく、物的証拠にも手を加えた形跡があるのです(証拠の捏造と改竄(かいざん)の疑いについては、「冤罪を創る人々」第4章、4.冤罪の捏造と断罪の基本構図に詳述しました)。

それに加えて、松江地検は、私の無実を証明する証拠については徹底的な隠蔽(いんぺい)をはかり、法廷に持ち出そうとはしませんでした。私達弁護団の執拗(しつよう)な要求の結果、裁判長が提出命令を出し、公判検事である立石英生氏がシブシブながら提出する羽目になったというのが実際のところです(26通の真実の供述調書が隠匿されていたことについては、4.検面調書、その詩と真実、参照のこと)。

 現在のような、検察官の思惑だけで訴追するかしないかが決まる制度(起訴便宜主義とも起訴裁量主義ともいわれるものです)のもとでは、起訴そのものが恣意的なものに堕すのは避けることができないようです。倫理観の欠如した検事の、気ままな匙(さじ)かげん次第で、人の一生が左右されることにもなりかねません。
 検察が鳴り物入りで逮捕した以上、仮に十分な犯罪事実が認められなくとも、あるいは無実を明白に証明する証拠が捜査の段階で見つかったとしても、誤りを認めて途中で引き返すことはしないで突っ走り、何が何でも犯罪にしてしまう傾向にあるのも事実です。犯罪のデッチ上げがいとも軽々しくなされる所以(ゆえん)です。現在の刑事裁判は、「疑わしきは罰せず」というのが建前になってはいますが、現実は全く逆で、「疑わしきは罰する」という逆立ちした論理が横行しています。この誤った考え方は、起訴の段階だけでなく、判決においても顕著にうかがえるところであり、日本の刑事裁判の有罪率が99.7%と100%に近い数値を示している原因の一つになっているようです。
 逮捕までして間違っていたとなると、あるいは検察の威信にかかわるとでも考えているのでしょうか。そうであるとすれば、国民から強大な権限を付託された者の驕(おご)りであり、倒錯したプライド意識以外の何ものでもありません。
 更には、一たび起訴した以上は何が何でも有罪に持ち込むことに一所懸命になり、事実上誤まりをチェックするものがいないことをいいことにして、まさに何でもありの好き勝手な行動が当然のように繰り返されているのです。
 訴因(そいん。検察官による事実の主張-広辞苑)の不当な変更は日常茶飯事ですし、証拠の捏造、改竄、隠匿など、まさにやりたい放題。なんでもありの不埒(ふらち)な行為は犯罪そのものであり、このようなことを日常的に行っている検察組織は、暴力団のような犯罪組織と何ら変るところがありません。いや、変るところがないどころか、見方によれば犯罪組織よりタチが悪いのかもしれません。通常の犯罪組織とは異なり、誰もとがめる者がいないのですから、どんなヒドイことをやってもフリー・パス。シャレにならない究極の無法者と言うべき存在であり、始末に負えないなんとも困った連中です。法の番人であるべき検察が暴力団をしのぐ犯罪集団とは、現代日本におけるブラック・ジョークの最たるものですね。

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 ここで一句。

”天性の 前衛書家と 言われてる” -福岡、只乃愚痴。

 

(毎日新聞、平成19年9月9日号より)

(ただの悪筆? このところ天性の前衛政治家とか天性の前衛経営者が多いようで。)

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