松江の庭-1

“飼飯(けひ)の海の 庭(には)好くあらし 刈薦(かりこも)の 乱れ出づ見ゆ 海人(あま)の釣船”
「飼飯の海の海上は穏からしい。刈りとった薦のようにあちらこちらから漕ぎ出して来るのが見える、漁師の釣船よ。」(万葉集、256番歌。講談社文庫、中西進「万葉集全訳注原文付」より)

 歌聖と称される柿本人麿の、この歌には懐かしい想い出がある。

 14年前の平成8年の今頃、私は松江刑務所拘置監に閉じ込められていた。広島国税局のマルサ(査察)と松江地検によって創り上げられた、脱税というヌレ衣を着せられて逮捕勾留されていたからだ。(“冤罪を創る人々”参照)

 裁判の準備以外には何もすることがなく、あり余る時間つぶしのためにたまたま始めたのが書写であった。当初は退屈しのぎのつもりであったが、次第に書き写すことの楽しさにのめり込んでいった。(“書写と古代幻視”参照)

 万葉集4500首余りを書き写していく中で、私の心に響いた素適な作品をピックアップしていったところ200首余りとなった。冒頭にかかげた人麿の歌はその中の一首である。

 時刻は明け方であろうか。飼飯の海は、私のイメージでは入江であり、うっすらと朝もやが立ちこめている。海面は穏やかであり、磨きあげた鏡のようだ。漁船が三々五々、航跡をくっきりと残しながら岸辺から漕ぎ出してくる。
 一幅の水彩画である。動きはあるが、一瞬一瞬で止っている。心が澄みわたる情景だ。この歌をノートに書き写し、何回か音読するに及んで拘置所の狭い独居房が飼飯の海になった。私は小高い丘の上に腰をかけている。飼飯の海が眼下に広がる。私はまた海の上にいて、釣船を操る漁師になって櫓(ろ)をこいでいる。幻視である。

 松江は水の都だ。宍道湖と中海の2つの汽水湖、その間を潮の満干によって行きつ戻りつ流れる大橋川。市内には松江城を中心に多くの堀川の流れがある。
 大橋川。長さにしてわずか7kmほどの川ではあるが、上流、中流、下流、それぞれに異なった歴史があり、異なった景観がある。
 中でも私が最も好きなのは上流域、ことに宍道湖からの入口部分、いわゆる呑口(どんこう)部だ。松江大橋と宍道湖大橋の間の水域である。私は自分勝手に、この水域を“松江の庭”と呼んでいる。人麿が飼飯の海を“庭”と呼んだのと同じ意味合いの庭である。

 水郷松江は霧が多い。視界をさえぎる朝霧、日が昇るにつれて薄紙を一枚一枚はぎとるように湖の情景が現われ、海人の釣船ならぬ、蜆(しじみ)漁師の船が集まってくる。船上から鋤簾(じょれん)を操って大和蜆(やまとしじみ)を採るためだ。
 日本一の生産量を誇る宍道湖の大和蜆。朝の2,3時間で一日分を稼ぎ出す蜆漁師達。かつて宍道湖の淡水化計画を中止に追い込んだのは、自らの職域を必死になって守ろうとした蜆漁師であった。宍道湖が淡水化されれば、汽水域でしか生息できない大和蜆が全滅するからだ。この人達の熱意と、反対運動のためにこの人達が提供した多額の資金(私の推計では3億円前後)は括目すべきである。
 宍道湖が無謀な国策によって壊されることなく残ったのは、私達松江市民だけでなく広く日本全体にとって幸せなことであった。反対運動の一翼を担った一人として、改めて、この誇り高き職業集団に感謝し、敬意を表したい。

(この項つづく)

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 ここで一句。

“ショックです夫が席を譲られた” -川崎、さくらの妻。

(毎日新聞、平成22年4月16日付、仲畑流万能川柳より)

(今から28年前のくにびき国体の時であった。古希を迎えた画家の岡本太郎さんが松江の事務所(元の灘町事務所)にやってきた。パートナーの岡本敏子さんとご一緒であった。松江の街を3人で歩いていたときのこと、横断歩道にさしかかった。私がさりげなく岡本太郎さんに手を差しかけたところ、邪慳に振り払われてしまった。年寄り扱いするなということであろう。思えば私も67歳、あのときの岡本太郎さんと同じような年輩になった。私も若者に同じようにされたら余計な気遣い無用とばかりに、振り払ってしまうに違いない。老人の自覚が全くないからだ。岡本太郎さんは子供のように純真な魂を持った、ユーモア溢れる座談の名手であった。岡本敏子さんは才女であり、太郎さんのよきパートナー(戸籍上は養女)として影のように付き添っていた。東京青山のご自宅には何度かお邪魔した。岡本太郎さんの作品に囲まれた異様な空間での話し合いを懐かしく想い出す。
 お二人とも鬼籍に入られ、幽明、境(ゆうめいさかい)を異(こと)にすることとなった。合掌。)

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