司馬遼太郎と空海 -その6
- 2004.07.27
- 山根治blog
空海の出自は、被征服民である蝦夷(えみし)であり、その死は入定(にゅうじょう)というような特殊なものではなく、通常の死であり、遺体は火葬に付された、-弘法大師空海上人に帰依する人にとっては素直に読み流すことのできない作家の筆致は、空海の女性に対する関心に及ぶと更に大胆になってきます。
森鴎外が自らの性の遍歴を『ウィタ・セクスアリス』で淡々と表白しているように、作家は空海のウィタ・セクスアリスを、ごく自然なタッチで検証していきます。
一般に空海は、生涯不犯(ふぼん。女性との性交渉を持たないこと)であるとされてきました。作家はこの通説に対して異を唱え、空海が自ら著した諸作品等の足跡を辿ることによって、空海が不犯であったどころか、女性に対しては人一倍強い関心を持ち、性交渉を持ったに違いないと推断しています。
空海の性について語るとき、作家は、空海二十四才の時の処女作「三教指帰」を克明に辿っていきます。空海の出家宣言書ともいえるこの戯曲には色情にちなむ叙述が多く、その一端は既に述べたところです。(「空海と虫麻呂-その4」参照)
作家もこの事実についてはかなりのスペースを割いて指摘しています。ただ、「蛭牙公子(しつがこうし)」という名の、狩りやばくちや酒色にふけっているやくざな若者についての記述、あるいは、その若者を説教するために登場する「亀毛(きもう)先生」(儒学を代表する人物)とか「虚亡(きょぶ)隠士」(道教を代表する人物)の記述に関する色情的記述が指摘されているだけで、空海の分身である「仮名乞児(かめいこつじ)」については、何故か女性問題が省略されています。作家は、私が以前に指摘した二人の女性-雲童娘(うんとうのをんな)と滸倍尼(こべのあま)を何故とりあげなかったのでしょうか。
法華経は、不男(ふなん)に近づいて親しくつきあってはいけない、と教えています。
不男、-男根不具の者のことで、五つの類型に分類されています。その第一に挙げられているのが、「生不能男」であり、生まれながら婬する能わざる者、とされています。”亦、また、五種の不男(ふなん)の人に近づいて、もって親厚(ねんごろ)をなさざれ。”
(亦復不近、五種不男之人、以爲親厚、-安樂行品、第十四) 求法者たる者は、決して不男に近づいてはいけないということですが、当然の前提として、求法者自らも不男であってはいけないことになります。通常の性欲をもち、生殖能力を持った者こそが、仏の道を歩むことができるという訳です。
このように見てきますと、作家が空海の生涯不犯伝承に異を唱え、異性との性交渉を推断していることは、仏法者としての空海を何ら傷つけるものではないことが判ってきます。
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