冤罪を創る人々vol.10

2004年05月25日 第10号 発行部数:207部

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 「冤罪を創る人々」-国家暴力の現場から-




    日本一の脱税事件で逮捕起訴された公認会計士の闘いの実録。


    マルサと検察が行なった捏造の実態を明らかにする。


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 山根治(やまね・おさむ)  昭和17年(1942年)7月 生まれ


 株式会社フォレスト・コンサルタンツ 主任コンサルタント


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●(第五章)権力としてのマルサ ―暴力装置の実態




「6)その後 ― (1)」より続く


http://www.mz-style.com/item/52






7)ある社長の自殺




一、 平成5年12月25日、衝撃的なニュースが、私の目に飛び込


 んできた。




 『ハニックス工業社長が自殺 ― 東京国税局ロビーで、「脱税は


  無実」と遺書』(日本経済新聞、同年12月25日付)




二、 ショッキングな見出しで始まった記事は次のように続く ―




 『24日午後4時半ごろ、東京都千代田区大手町合同庁舎第二号


  館東京国税局一階ロビーで、男性が血を流して倒れていると


  110番通報があった。警視庁丸の内署の調べで、男性は東京


  地裁から破産宣告を受けた建設機器メーカー、ハニックス工業


 (埼玉県三芳町)のH社長(59)=埼玉県上福岡市福岡三=と


  わかった。H社長は出血多量でまもなく死亡した。所持品から


  遺書とみられる文書が見つかったことから、同署では自殺とみ


  ている。


   同社長が持っていたバッグの中に、遺書とみられる文書があ


  り、「脱税の罪をかぶせられたが、まったく無罪だ。摘発を受


  け、社員に迷惑をかけた。死んで抗議する」などと書かれてい


  た。』




三、 私がこのニュースに大きな衝撃を受けたのは、私自身、脱税の


 嫌疑で広島国税局の強制調査=査察を受けている最中であったから


 である。




四、 事実を歪曲し、証拠を捏造して、なにがなんでも、私を脱税の


 嫌疑で告発しようとしている査察に対して、告発をくい止めようと


 し、私は必死になって立ち向かっていた。


  私は公認会計士であり、信用第一の仕事であるだけに、脱税とい


 う破廉恥な罪で告発されるだけで、私の事務所は壊滅的な打撃を受


 けることは明らかであり、私の会計士人生が終ってしまうおそれが


 あったからである。




五、 このなんとも痛ましい事件は、文字通り他人ごとではなく、私


 自身のこととして、私の心臓にグサリと突き刺さったのである。






(8) 抗議書の作成




一、 マルサのガサ入れから三ヶ月が経過しようとしていた。


  私を始め、組合の人達は全て、いわれなき脱税の嫌疑については


 全面否認を通した。マルサが虚構のシナリオを捏造しているのであ


 るから、当然のことである。


  私は、“事件”の核心を証明する二つの民事裁判の確定判決書を


 はじめ、多くの疎明資料を提出(そのほとんどは、ガサ入れ時に押


 収されたものだ)し、マルサに対して詳しく説明してきた。


  更に、マルサの要請にもとづき、長大な申述書を作成している最


 中であった。




二、 平成5年11月22日以来、マルサと私との接触は一時的に途


 絶えたものの、組合の人達に対しては、毎日のようにやってきては、


 虚偽の自白を執拗に迫っていた。


  捜索令状をとり、大がかりなガサ入れをした以上、なにがなんで


 も検察庁に告発する姿勢を崩していない。




三、 ハニックス工業の場合、脱税の告発が公表された直後に倒産し


 た。社長は、国税に対する恨みの遺書を懐にして、東京国税局のロ


 ビーで、自らの心臓を切り裂いて自殺した。




四、 他人ごとではなかった。明日はわが身、私も同じような運命を


 辿ろうとしている。犯罪者の汚名を着せられ、ボロキレのように葬


 り去られてしまう。




(続きはWebサイトにて)


http://www.mz-style.com/item/58






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●山根治blog (※山根治が日々考えること)


http://consul.mz-style.com/catid/21






「空海と虫麻呂 ― その4」より続く


http://www.mz-style.com/item/53






  虫麻呂の橋の上の乙女と、空海の住吉の海女、こべの尼僧 ― 。


  これらの女性は虫麻呂と空海の想念上の存在であるとすれば勿論


 ですが、仮に現実の存在であったとしても、2人の手には届かない


 存在であったのでしょう。




  奈良・平安時代、知識階級に愛読された作品の一つに「遊仙窟」


 があります。


  唐代の小説で、一人の男が路に迷って神仙の窟に入り、仙女の歓


 待を受けるという、いわば桃源郷の物語です。中国では早くに散逸


 し、日本にのみ残された作品で、万葉集をはじめてとして日本の文


 学に大きな影響を与えたとされています。


  この小説は、当時四書五経等の勉学の合間の息抜きとしてもては


 やされたようで、万葉集では虫麻呂をはじめとして、大伴旅人、大


 伴家持、山上憶良等が、それぞれの作品の中に「遊仙窟」の痕跡を


 色濃く残しています。




  平安初期のトップインテリであった空海も例外ではありませんで


 した。「三教指帰」の中に「遊仙窟」の影響が随所に見受けられる


 ようです。


  空海は仏法を学ぶ以前に、儒教と道教とを学んでいます。道教は


 神仙思想といわれており、仙人仙女がでてきますので、この関連か


 ら「遊仙窟」を手にしたのでしょう。




  虫麻呂は、理想的な女性、あるいは理想的な男女を唱いました。


  先にあげた


  ・橋上の乙女(※巻9、1742番)


 をはじめ、


  ・珠名娘子(たまなのをとめ)(※巻9、1738番)


  ・真間の手児名(ままのてこな)(※巻9、1807番)


  ・菟原処女(うなひをとめ)(※巻9、1809番)


 等があります。




  空海と虫麻呂は、生きた時代が70年ほど違い、空海は書を極め、


 仏法を極めた聖人であり、虫麻呂は下級官僚にして、きらびやかな


 歌を万葉に残し、華麗な四六駢儷体を常陸国風土記に残したと言わ


 れています。


  全く異なった人生を生きた二人ではありますが共通するものがあ


 りました。




  一つは、女性に対する憧憬であり、二人にとっては現実には達成


 できなかったようです。


  二つは、漢詩文に対する深い造詣であり、二人とも四六駢儷体を


 自家薬籠中の物にしていました。


  三つは、二人とも艶事小説である「遊仙窟」を愛読していました。




  空海が一時的ではあっても「遊仙窟」に沈潜し、男性としての業


 に捉われた事実によって、空海が虫麻呂とオーバーラップし、私に


 とって身近な存在に思えるようになったのです。


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