中江滋樹氏からのダイイング・メッセ-ジ-⑰-見えてきた裏の構図-(8)
- 2020.07.22
- 山根治blog
生前の中江滋樹氏とは、多くの時間を費やして二人きりで話し合っただけでなく、数多くの手紙のやりとりをしている。
ここに中江滋樹氏からの最後の私信を公表する。本稿の末尾に掲載したのがそれである。
この私信は郵送されたものではない。二人にとっての想い出の場所、赤坂の土佐料理店・祢保希(ねぼけ)において食事をしながら手渡されたものだ。近くには、中江滋樹氏が半玉の宗千代さんと一時期暮らしていたマンションの瀟洒(しょうしゃ)なペントハウスがある。懐しかった。
中江滋樹氏は、「人生の大筋の方程式」が解けたと言い、方程式の解として、「ある組織」を示唆している。
5年後の令和2年2月20日、中江滋樹氏は66年の人生を終えた。私の「人生の方程式」は、中江滋樹氏の方程式と大筋において変わらない。ただ、中江滋樹氏が方程式の解とした「ある組織」は私には想定がつくものの、私の解ではない。理由は簡単だ。
中江滋樹氏は稀代の相場師であったのに対して、私は職業会計人、即ち、会計の職人であったことだ。人生の方程式の方向性は一致するものの、方程式そのものが違っている。私の方程式は、200以上のクラスタ-としての変数をもった、いわば連立方程式だ。数学的には、N次元空間におけるクラスタ-変数の解を求める行列とでも言ったほうがいいかもしれない。その行列を認知会計のメスで解いたのである。
「人生の大筋の方程式を解く」に、至りました。
知らなかったとは、いえ、失礼の数々を、深く、お詫び申し上げます。お赦しください。
投資ジャーナル事件となった、金融部門について、
「全員が、全員、継続させよう」と、私に対して、働きかけました。
それは、ある組織、そして、私の身内達にとって、よい「金蔓」だったからでしょう。しかし、先生は、(忘れもしません.)投資ジャーナル本社ビルの(兜町中央ビル)4Fにおいて、二人きりで、話した時、
「早く、どっかで、区切りをつけて、止めなさい。いつまでも、やっている事では、ない。」と、(私も、内心、同意見でした。)おっしゃってくださいました。
「方程式が、解けた今」。盗聴、盗撮されていた中で、その間隙を縫って、
私の事を、真に考え、案じ、よくぞ、助言してくださったものだと、感服すると共に、感謝いたしております。「早く、止めなさい」と、提言してくださったのは、先生、唯一人でした。先生にとって、「いつまでも、やっている事ではない。適当な所で、止めなさい。」と私に、言うことは、多大な、リスクであったろうと、思量いたします。
人生の方程式を、解けた今となっては・・・・・・!!
拘置中、多くの人々が、面会に、来てくださいました。面会の時、手錠を、外される私を見て、言葉に、出さずとも、「何てことになってしまったんだ」と、本当に、残念そうに、してくださったのは、先生だけでした。
2006年!!日本に、帰国(2004年)した後、放火事件(火炎瓶)を、起こした時、大津の拘置所に、槙枝弁護士が、来てくださった時、槙枝先生も、山根先生と同じく、言葉に、出さずとも、「何て事になってしまったんだ」と本当に、残念そうな顔をしてくださいました。今から、考えると、他の人間は、まるで、人形のような、面会でした。その謎も、今は、解けました。
本当に、残念そうな表情をしてくださったのは、お二人だけでした。
これが、「能力と、人間性」二つを合わせもった人間なのだと、今にして思います。
もう、再起は、もちろんのこと、人生そのものを、諦めて、一日一日を、
何とか、自分を騙し、騙し、生きております。
今となっては、「本物の人間、男(漢)」も、中には、いてくれたことが、私の唯一の心の救いです。
「先生との出逢い」を、誇りに思い、筆を擱きます。
ありがとうございました。 合掌!!
山 根 先生へ.
遺言にかえて.
中江 滋樹 拝.
(太字は筆者。封筒の表書は、「山根先生へ」、裏書は、東京都葛飾南水元1-2-9-205、郵便番号125-0035となっている。)
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ここで一句。
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