修正申告の落とし穴-④

 勝手に創り上げた「脱税ストーリー」、つまり「虚構のストーリー」を納税者に押し付け、当然のことのように修正申告を迫るのは料調だけではない。捜索令状を振りかざして殴り込んでくる査察も同様だ。査察が料調と異なるのは、ズバリ、脱税という犯罪を摘発する犯罪捜査を行うことだ。

 隠れマルサと称されている料調、たしかにやっていることは査察と変るところはない。しかし、料調は法律的に認められていない、いわば”覆面部隊”、つまり、”鬼っ子”(「修正申告の落とし穴-①」参照)だ。”告発”とか”逮捕”などという刑事罰に関連する言葉を露骨に発することはない。威嚇的(いかく)な言葉を連発し、納税者に十分分かるように匂わせるだけである。

 これに対して査察はどうか。これは正規の犯罪捜査部隊だ。令状を手にして大威張りで乗り込んでくる。彼らは、査察調査のしょっぱなから、検察に告発することが任務である旨、嫌疑者に告げあからさまにプレッシャーをかける。

 今から20年ほど前のことである。平成5年9月28日、広島国税局査察部が私を襲った。(「冤罪を創る人々-015 強制調査 初日」参照)
 私の自宅に捜査令状を手にして乗り込んできたのは、担当査察官の藤原孝行だ。当時、広島国税局の調査査察部査察第3部門に属していた収税官吏である。後日、検察への告発名義人になった人物であり、現在は、広島西税務署特別調査官(法人税)をしている。ちなみに、この収税官吏という肩書、査察の根拠法である国税犯則取締法(俗に、コッパン法)の中に、いやというほど登場する名称だ。現在、正式文書以外には用いられることのない、いわば”死語”である。通常用いられているのは、この収奪人を連想させる収税官吏のかわりに、国税査察官というカッコいい名称だ。

 収税官吏藤原孝行が開口一番、腕まくりをして、凄むように私に宣言した。

「さあ、料調の調査は本日をもっておわり。これから国税犯則法による強制調査に移る。
 山根とは最低三ヶ月、長ければ半年以上つきあうことになる。自分が直接の担当者として、ことにあたる。自分の仕事は検察に告発することだ。今日は夜遅くなると思うので、じっくりつきあってもらおうか。」

 私が取調べを受けたのは、旧松江税務署の一階の和室であった。畳敷の上に机を持ち込んで用意された急ごしらえの部屋だ。松江税務署全体が異様な雰囲気につつまれていたことを、まるで昨日のことのように鮮明に想い出す。極悪犯を召しとったといったところであったろう。
 この取調室、急ごしらえのものであるから当然密室ではない。窓もあり、鍵もかけられていない。 
 従ってこの時点では、査察が嫌疑者を密室にぶち込んで締め上げることなど考えも及ばなかった。査察調査が強制調査ではなく、任意調査であることを知っていたからだ。この時私が、東京国税局に用意されているような密室(「マルサ(査察)は、今-③-東京国税局査察部、証拠捏造と恐喝・詐欺の現場から」参照)にでもぶち込まれていたとすれば、査察調査のカラクリ(「脱税は犯罪ではなかった」1~7)がもっと早い段階で判明していたに違いない。
 私が拷問部屋に等しい密室の存在を知ったのは、この時から19年後の、平成24年4月9日のことであった。この時私自身が嫌疑者と一緒に東京国税局の拷問部屋に立ち入ったことは、挙動不審な査察官とあいまって、査察調査に対する根本的疑念を惹起させることになった。その頃私はいくつかの査察案件をかかえており、それらを処理するにつれて疑念はますます深まった。
 国税犯則取締法自体に致命的な欠陥があることを発見したのはわずか一年ほど前のこと。疑念は疑惑へと変容し、法律の欠陥を糊塗しようとして犯罪的な小細工を繰り返す、査察官と検察官の生々しい姿に接したことによって、査察調査についての疑惑は確信へと変っていったのである。

(この項つづく)

 ―― ―― ―― ―― ――

 ここで一句。

”靖国に眠るはすべて英霊か” -島田、東海島田宿

 

(毎日新聞、平成26年2月23日付、仲畑流万能川柳より)

(大工であった私の父は、終戦の年昭和20年に、天皇を神と信じ、フィリッピンで戦死。32才。戦後、昭和天皇による人間宣言。天皇は、現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定され、現人神、現御神(あきつみかみ)は架空の観念であったことを明らかにされた。)

Loading